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vol.21「イルミネーション」大雪 12/7〜12/20


 ほんの数週間前までは、山や町の木々はハッとするような美しさで目を喜ばせてくれていたというのに、それもつかの間。枯れ木の背景にはグレーの空が広がっていて、モノクロの写真でも見ているよう。寒く、もの哀しくも思えるけれど、これはこれで好きな季節の景色。
「紅葉の色の鮮やかな時期が終わりかけて、色彩が少なくいつ雪が降り始めてもおかしくない頃の山の景色が好きなんです」

と、ある音楽家の方からお話を伺ったことがある。それまで色鮮やかな紅葉の季節が終わってしまうのが寂しくて仕方なかったのが、この言葉に助けられたというか、紅葉シーズンに浮かれていた自分が恥ずかしくなったというか。お陰で移ろうその時々の風景ひとつひとつに美しさがあることを、あらためて感じられるようになった。

 季節の景色というものは自然が作り出したものばかりではなく、人の手で作られたものもある。イルミネーションもそのひとつ。12月に入ると、町役場やお店、旅館、住宅のあちこちでクリスマスシーズンに合わせた電飾のあかりが灯る。夕方も5時を過ぎれば日が暮れて、お店を閉めて帰る頃には外は真っ暗。街灯が少ない三春の冬の夜道を歩く人は少なく、ごくごくたまに部活帰りの高校生とすれ違う程度。時間の感覚がわからなくなって、まるで真夜中に歩いているような静けさだ。そんな時、チカチカと輝く電飾のあかりにホッとさせられる。白熱灯のシンプルなものもあれば、赤に緑、青や黄色にオレンジ、桜をイメージしたピンク色のイルミネーションもあるし、花壇にサンタクロースの人形がいくつも並んでいるところもある。家やお庭全体をイルミネーションで飾り付けたお宅もあって、車で走っていても目を引くほど。色の好みなどはまず置いておいて、否が応でもクリスマスを意識して、何があるというのでもないのに、なんとなく鼻歌でも歌いたくなるような気分になってくるのだ。三春町で暮らすようになって、クリスマスがやってくるのを心待ちにしていた子どもの頃のことを思い出すようになった。

 東京でお店をやっていた頃は、浅草が近かったこともあって、12月に入るとクリスマスよりもお正月を意識することが多かった。確かに町にもクリスマスに向けたイルミネーションはあったけれど、やはり似合うのはツリーよりも門松だった。in-kyoのディスプレイもクリスマスらしい期間は短く控えめで、それよりも漆の器を並べ、松や南天、正月飾りの和の雰囲気の店内という期間の方が長かったように思う。スカイツリーのライトのカラーが赤・白・緑になるのを見てそこでやっと
「あぁ、クリスマスかぁ」
と、大げさではなくそれぐらい意識の比重が新年に向けられていて、町全体がソワソワとした師走らしい空気に包まれている様子が下町っぽくて好きだった。そのくせクリスマスにかこつけてチキンを食べ、ワインを飲み、ケーキまでちゃっかりと食べてはいたのだけれど。
 三春町のイルミネーションを見てホッとしたのは、商業ベースの大規模なものではなく、玄関先や個人商店の店先など、あくまでも個人的なものがほとんどだからかもしれない。夜道に浮かび上がるあかりからは、飾っているご本人やご家族の方が楽しんでいる様子が自然と伝わってくる。そしてその景色でたとえ人通りは少なくても、車からでも道行く人を喜ばせたいという気持ちもきっと含まれているから。

 夫の仕事が遅い日は、お迎えの車を待たずにトボトボと歩いて家に帰る。空からいつ雪の粒が、チラチラと舞ってきてもおかしくないほど空気は冷えきっている。ゆるやかな上り坂を歩いているのは私だけ。途中、チカチカとイルミネーションを灯すお宅に「お帰り〜」「お疲れさま〜」と声をかけられているようで、寒いのになんだかあったかい。
 我が家はイルミネーションの飾りつけはしていなくて真っ暗だ。この時期だけでもちょっとくらい何かあかりを灯した方がいいだろうかと、あかりが点いていない我が家を見ては、そんなことが頭をよぎる。そう思うのに朝になって明るくなれば、またすっかりそのことは頭のすみへと追いやられてしまうのだ。
 玄関に向かう暗い石段を上り、群青色をした冬の夜空を見上げると、オリオン座と北斗七星のイルミネーションがくっきりと輝いていた。我が家のイルミネーションは今のところこれでいいのかもしれない。
「ただいま!」