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vol.47 小寒「箒」1/5~1/19

 東京でひとり暮らしをしていた頃、今からもう10年以上前になるだろうか。掃除道具を掃除機から箒へと切り替えた。そうするための何かが特にあったわけでもない。あるといえば当時の引っ越しがきっかけだったかもしれないが、それが決定的な理由でもなかった。あえて言うなら「身軽でありたい」ただそれだけのことだったように思う。そういえばその頃から掃除機だけではなく、テレビや電子レンジも家に置くのをやめてしまった。当時はまだ実家では電気店を営んでいたので、父からは
「家にテレビも電子レンジも無くてどうするんだ!」
と、在庫があるから送ると言われたのを丁重に断ったのだった。もちろん掃除機も断った。なぜこの便利な時代に、わざわざ不便な生活をするのかと、両親には理解不能だったに違いない。ましてや電気屋の娘だというのに。が、当の本人は不便どころか、電化製品の置き場所で頭を悩ますこともなく、テレビを見ることは大好きだったけれど、それで時間を取られなくなり、なんだかとっても軽やかで快適になったと感じていたのだ。
 掃除に関しても、箒は軽いし、コンセントの差込口の位置を気にしなくてもいいし、充電も要らない。さほど広くもない部屋の掃除は、パッと思い立ったときに気軽に使える箒の方が自分と相性が良かったようだ。それに箒で「掃く」という行為自体、埃だけではなく、そこに溜まった澱みのようなものを払っているような感覚が清々しかった。
 祖母が健在だった頃は毎朝リビングの窓を開け放ち、箒を使って掃除をしていた。それはどんなに寒い日でも祖母の決まりごとになっていて、コタツの布団も上げ、サササッとあっという間に掃き終えると、気が済んだといった様子でそこでやっとヒーターやコタツで部屋を暖め始めるのだった。そして朝一番にいれるお茶と、その日炊き立てのごはんをお供え用の器に入れて仏壇へ。お線香に火を点け、おりんをチーンと鳴らすとともに、何やらむにゃむにゃと唱えたら祖母の朝のお務めは終わり。朝食前に梅干しひとつとお煎茶を飲みながら、新聞に目を通すのもいつものことだった。さっぱりと整えた部屋の中で、白い割烹着姿でお茶をすする祖母も含めた景色。今思い返すと、普段目にしていたそれが1日のはじまりだったことを幸せに思う。
 私が子どもの頃には、箒を担いで売りに来る人がいた。頼んで来てもらっていたのではなく、ちょうど箒の先が反ったり、減ってきたりといつも絶妙な頃合いでやって来たように記憶している。「箒屋さんが来たよー」と私が知らせると、祖母は長い箒と短い箒を必ず一本ずつ新調していた。すでにその頃は世の中の掃除道具の主流は掃除機となっていたが、箒屋さんが実家に通っていたのはいつ頃までだったろうか。祖母が自分で掃除をするときは、箒屋さんが来なくなってからも変わらず箒を使っていた。

だからということではないけれど、私も東京の生活に引き続き、三春で暮らすようになってからも、あたり前のこととして家とお店の掃除はそのまま箒を使っていた。が、自宅の掃除は2匹の猫を飼い始めてからは一変、あっさりと掃除機に戻すこととなった。それでも子猫の頃は箒でなんとかやり過ごしていたのだが、成長するにつれて毛の生え代わりの時期などは、イタチごっこのように何度掃いてもキリがなく、根負けして掃除機導入を決めたのだ。何年かぶりに使う掃除機。その威力になんて便利な道具なのだろうと、時代錯誤もいいところだが感心しきり。もっと便利な道具を求めれば、ロボット掃除機もある時代だというのに、何を今さらと自分のことながら苦笑いだ。掃除機なら家のいつもの小掃除はものの10分もあればスッキリ終了。猫たちもそれぐらいの時間であれば「やれやれ今日も始まった」といった様子で隅っこにうずくまり、嵐が過ぎるのを待つかのように、掃除機の音がおさまるまでじっとしている。日々生活する上では早くラクにできるに越したことがないのだけれど、どこか味気無くもある。
 一方、お店の掃除はというと、相変わらず箒を使っている。冬場は店内が乾燥しているので、フローリングがわずかに縮み、板と板の間に隙間ができる。そんなちっぽけなことで季節を感じたりもしている。隙間に入った埃を箒で掻き出すようにしている間、実は頭の中ではぼんやりと全く別のことを考えていることが多い。その日の1日の予定をシュミレーションしていることもあれば、他愛もないこともある。むしろ大抵は取るに足らないことが頭に浮かんでは消え、浮かんでは消えていき、そうして塵のようになった思考をササッと箒で掃いているような感覚もある。箒で掃き終えた後は、モップを使って水拭き。床材に使った楡の木は、それだけの手間でもちゃんと応えてくれるかのように、気づけばずいぶんと艶が出てきた。掃除機を使えば隙間の埃もいっぺんにきれいになることもわかっている。その後にモップがけしても同じように艶は出ていたことだろう。強いこだわりがあるわけではなく、箒掃除の時間がただ好きなだけなのだが。
祖母が積み重ねていたあのさっぱりとした1日のはじまりの空気に似たものを、いつか私にもつくり出せる日がやって来るのだろうか。それも塵のような思考のひとつかもしれないと、箒でサササッと履いていく。