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vol.45 大雪「ストーブ」12/7~12/21

 陽が暮れるのが日に日に早くなっている。午後を過ぎてin-kyoの白い壁に、冬のやわらかな光が届いたと思ったのも束の間、スッとその姿を消してしまう。まるでその日の最後の挨拶を済ませて、そそくさと帰ってしまうみたいだ。こちらは挨拶を返せぬまま、ポツンと置いてきぼりにされたような気分で意味もなく寂しくなる。
 夕暮れの余韻は短く、まさにつるべ落とし。夕方も5時を過ぎれば辺りは真っ暗になり、急ぐ用事があるわけでもないというのに、暗くなってしまったし、寒いしというだけで、なぜか早く家に帰らなければと気が焦る。急ぎ足で吐く息が白い。家の中はというと、改修の甲斐あってほんのりあたたかいが、それでもまずは薪ストーブに火を点けなければとやや身構える。夫がいれば火をつけるのも、薪割りも夫任せなのだが、仕事で夫の帰りが遅い場合は猫の手というわけにもいかず、私が点ける他ない。なんてことはない、教わった通りに焚きつけ用の木っ端に火を点け、タイミングを見計らって薪をくべればいい。我が家の薪ストーブ自体シンプルな構造で、単純極まりない作業だ。だが私がこの作業を始めると、我が家の猫スイとモクはさっきまで人の顔を見ては「ごはん~ごはん~」とミャーミャー鳴いていたというのに、急に黙り始めて少々不安げな様子を見せる。
「待っててね。すぐにもっとあったかくしてあげるからね」
スイとモクにそう話かけても、モクは離れたところから様子を窺い、スイはピタリとくっついて心配そうに私の顔を見上げる。
「大丈夫なんですか?」と。
 薪に火がまわり、良い感じで火が落ち着いていくと私がホッとしているのが猫たちにも伝わるのか、しめしあわせたようにストーブのまわりにやって来て、ゴロンと無防備な姿で寝転がる。全くげんきんなものだ。
あたり前のことだが、炎は自然相手。こちらの思うようにはなかなかいかない。外の気温や風の強さ、薪の乾燥具合や広葉樹、針葉樹でも燃え方が違ってくる。エアコンのようにピッとリモンコンのボタンひとつで設定まで変えられたりするものでもない。
生まれ育った千葉の家や、東京での暮らしでは薪ストーブを使う暮らしなど想像もしていなかった。夫、たっての希望だったが、三春での暮らしでも今の家でなければ実現させるのはなかなか難しかったかもしれない。戦後に建てられた小さな平屋には煙突が立ち、薪が燃える燻製のようないい匂いがかすかな煙に乗って漂っていく。家の中で火を見ていると、アウトドア派でもないというのに、キャンプでもしているかのような気分になってくるのだ。
 その昔は台所で煮炊きをする竈があり、お風呂も薪風呂。囲炉裏だってあったかもしれない。暖を取る手段が火に薪をくべるか、炭に火を起こすことしか選択肢になかった時代からしたら、今はなんと便利な時代となったことだろう。奇跡に近い。おじいさんは山へ柴刈りに、そして薪を割って「暮らす」と「生きる」の距離がグンと近く、携帯電話やパソコンもないシンプルな時代。私が想像している以上に苦労も多く大変だったであろうことはわかっているつもりだが、そこには現代にはない豊かさがあったのではないだろうか。湧水を竈で沸かした白湯、お天道様で天日干ししたお米もそこで炊き、畑仕事でかいた汗は薪風呂で流し、囲炉裏で暖を取る。100年足らず前にはどこの家でもしていたこと。今では携帯から家のエアコンをつけることだってできるようになっているらしい。
 体が温まり静かに燃える炎を見ていると、不思議と心が凪いで頭の中にはとりとめもないことがつらつらと浮かんでは消えていく。この安心感は、大昔から受け継がれている本能のようなものなのだろうか。いまだに着火にいちいちどぎまぎしている自分を思うと、進化しているのか退化しているのかがわからなくなってくる。