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vol.36 大暑「駅」7/22〜8/6


 今年に入って、以前から興味のあったアロマテラピーを学ぶために、月に一度いわき市にお住いの先生のご自宅まで通っている。私が車の運転をしないものだから、はじめの1~2回は夫が用事を兼ねて送ってくれたものの、それもなんだか気が引けて列車で通うことにした。
 三春駅からいわき駅までは本数は限られるけれど、磐越東線の直通運転の列車に乗れば約1時間半で行くことができる。私が乗る時間に通学で使っている学生は、田村高校へ通っているようで三春駅で皆降りる。入れ違いに乗り込んだ車内は大抵ガランとしていて、見渡して席が空いていたら、進行方向に向かって右側のボックス席に座るようにしている。子どもみたいだと思うけれど、そちら側の景色が気に入っているからだ。   
 磐越東線は2両だけの短い車両。走り出すときの音はディーゼル列車ならではで、トンネルに入る前には「ピー」という汽笛も鳴らして進んで行く。途中、艶々と濃く鮮やかな緑の木々の中を抜けていくと、夏井川渓谷が右手に見えてくる。車でもなく、自転車でも歩きでもない速度で流れていく風景。旅気分と同時に、私の頭の中では映画「少年時代」のワンシーンと、井上陽水の唄声が再生されるようで、どこか懐かしさや切なさといった郷愁にも似た感情まで湧いてくる。すでに見慣れたはずだというのに、春には春の、そして夏の間にも刻々と変わる、その一瞬一瞬の季節のグラデーションを、自然は出し惜しみすることなく見せてくれるのだ。
 こうして列車に揺られながらいわきまで通っていると言うと驚かれることが多いけれど、座ったままでいればいいだけで苦になることはない。むしろガタンゴトンといったあののんびりした揺れが私にとっては心地よく、本を読んだり、テキストを広げて教室の予習をしたり、ぼんやりと車窓からの景色を楽しむのにうってつけの時間となっている。この「ぼんやりする」ということが、普段は案外ないのかもしれないということにも気づかされる。そして次々ととりとめもない思考がふわふわと浮かんでくるうちに、いつの間にか眠気に襲われてウトウトとしてしまうのもいつものこと。深い眠りに落ちても、いわき駅が終点ということがまた都合がいい。
 私が生まれ育った千葉の自宅の最寄駅は、今でこそ近代的な鉄筋コンクリートの駅になってしまったが、10数年前までは駅舎もホームに架かる跨線橋も、置かれたベンチまで木造の味わいのある駅だった。夏には改札あたりにリーンリーンと風鈴が涼し気な音を響かせ、冬になれば、近くの高校の被服科の学生が、ベンチに合わせて作ったという長い座布団が敷かれ、電車を待つ人の寒さを和らげてくれた。上るごとにミシッミシッと音をさせて軋む木の階段も今となっては懐かしい。若い頃はそんな駅に対して「古くて恥ずかしい」という気持ちが心のどこかにあった。その一方で、通学中の満員電車でもみくちゃになったり、仕事でクタクタのしおしおになってしまった私を「おかえり」と、無条件のやさしさで迎えてくれる安堵感もちゃっかりと味わっていた。古い木の匂いや、駅員さんがいる窓口の様子など、今でも細部まで思い出せるというのに。私があの木造の駅舎が大好きだったと気づいたのは、ずいぶん大人になってからのことだった。
 
 三春駅の構内には、地元の野菜に、三春名物の三角揚げなどを販売する産直売り場、お土産売り場がなどがあり、時間に余裕があれば、アロマ教室の先生へのお土産を手にすることもある。またササッと気軽にお蕎麦やラーメンなどが食べられる食堂もあり、メニューには三角揚げを乗せたおそばやうどん、学生のために値段を抑えているのだろうか「学生ラーメン」といったものもある。部活帰りに、ここでお腹を満たして帰る学生もいるのでしょう。彼らにとっては、今は平凡で当たり前だと思っているその日常の風景や友達とのやりとりも、いつかふと懐かしく思い出すことがあるのかもしれない。将来この地を離れても、帰省をした際には「あぁ帰ってきたんだな」とホッとできるあたたかな空気が、彼らを迎えてくれるのだろう。
 駅のホームで列車を待つ間、駅前の桜並木に大群でもいるのか、降るように鳴く蝉時雨が耳に届く。日中にはどんなにグングンと気温が上がっても、朝晩にはスーッと涼しい風が吹いてホームにも気持ちのいい風が抜けていく。山の緑も空の青さもくっきりと濃い。絵に描いたような入道雲までムクムクと姿を見せる。気に留めなければ何てことはない、駅で見た夏の景色のひとコマ。私の記憶の中の駅の風景と、今目の前にしている駅の風景を重ねていく。それは決して下絵を消してしまうということではなく、それぞれの輪郭をしっかりと捉えて確かめるための作業のようなもの。記憶の引き出しに大切にしまっておいて、いつか何かの拍子に、どちらの風景もすぐに思い出せるように。