丑之助という名跡。なぜ「丑」なのか?
おっとりしているのは、決して悪いことではない。
寺嶋和史君、七代目尾上丑之助は、尾上菊五郎家の跡取りとして生まれた。
五代目尾上菊之助の前の名前は、六代目丑之助。七代目尾上菊五郎も、前の前は、五代目丑之助だった。
江戸の昔は、無事生まれても、早世する子も多かった。
利発だけれど病弱な子は、無事、元服してくれるのかと、親は心配だったろうと思う。ともかく元気で勇ましく。
そのためか、現代になってみると、いぶかしげな名前がある。
歌舞伎役者は人気商売である。華やかな名前のほうがふさわしいのはいうまでもない。けれど、幼年期は、邪悪なものたちから護られるように、人をそらすような名前を付ける。それが先人の知恵だった。
七代目尾上丑之助の初舞台は、令和元年の五月。
歌舞伎座の團菊祭で、「絵本牛若丸」を演じた。菊五郎、吉右衛門の祖父たちに護られての初舞台。照れ屋さん、なんだろう。でも、お弟子さんに抱えられて、牛若丸らしく飛び回る。楽しそうだな。
まだまだ幼い。だから、舞台に気が向かない日ももちろんあったろうと思う。
案じるひいき筋もいたかと思う。けれど、私は「これでいい」と思っていた。なんといっても「丑之助」なんだから。
五月の公演の千穐楽も迫ったころだったか、用事があって菊之助さんと電話で話した。仕事の用件である。
ひとしきり打ち合わせを終えて、私は「和史くん、がんばってますね」と言葉を継いだ。
菊之助さんは、照れて、
「お世辞にも上手いとはいえませんよね」
と答えた。
今や中堅の核となった菊之助は、幼い頃、名子役とはいわれなかった、 おっとりとした御曹司であった。
初舞台から五か月弱。
年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。