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中村勘三郎追悼文 2012年12月5日歿


 歌舞伎を愛してやまない人だった。歌舞伎が演劇の中心にあることを、信じ続けた人だった。その願いを生涯を賭けて全力疾走で実現したにもかかわらず、急に病んで、そして逝った。

 五代目中村勘九郎は、天才的な子役として出発した。昭和四十四年、十三歳のとき父十七代目勘三郞と踊った『連獅子』で圧倒的な存在感を見せ頭角を現した。二十代前半には『船弁慶』『春興鏡獅子』と、祖父六代目尾上菊五郎ゆかりの演目を早くも踊っている。六代目と初代中村吉右衛門の血をともに引いていることが、彼の誇りだった。若年の頃から、楽屋に六代目の写真集とともに、伊原青々園の著作を置いて、歴史を学ぶことを怠らなかった。

 『京鹿子娘道成寺』を本興行で初めて踊るのは、平成五年を待たなければならないが、舞踊の名手としての声望は高く『鏡獅子』と『道成寺』を大切に思い、繰り返し踊った。

 女形を中心に修業を重ねるが、昭和六十三年初役で『髪結新三』の新三を演じたのが立役へと大きく舵を切るきっかけとなった。父勘三郞の没後、当り役を次々と手がけていく。『東海道四谷怪談』のお岩、与茂七、小平、『一條大蔵譚』の大蔵卿、『仮名手本忠臣蔵』の判官と勘平、『身替座禅』の右京、三津五郎と組んで踊った『三社祭』『棒しばり』など鮮やかで清新な舞台は、観客の心を掴んだ。

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。