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十代目坂東三津五郎追悼文 2015年2月21日歿

 二月二十一日の夕方、新聞社から電話があり訃報を知ってから、しばらく呆然として何も手がつかなかった。こんな日が来るとは思わなかった。翌日になって青山のご自宅に弔問に伺い、最後のお別れをした。稽古場の舞台に横たわった三津五郎さんは、穏やかな顔で眠っているようだった。これからは、空の向こうで、好きな酒も煙草も存分に楽しめますね。話しかけたら、胸が詰まった。

 三津五郎さんから話を伺い、聞書きの本を二冊、岩波書店から出版したことがある。『坂東三津五郎 歌舞伎の愉しみ』(平成二十年)『坂東三津五郎 踊りの愉しみ』(平成二十二年)の取材をしていた頃は、毎月一度は会っていた。非力な聞き手の私を厭うことなく、身振り手振りまで交えて、懇切丁寧に、歌舞伎と舞踊について語ってくださった。

 坂東流の家元の家に生まれ、父九代目が所属していた菊五郎劇団で育ち、世話物のみならず、時代物、荒事にも成果を示した。新作にも積極的に取り組んだ。章立てを改めて見直すと、三津五郎さんの生涯が見渡せるように思う。以下の言葉は、主に二冊から引用する。

 世話物の将来を憂えるとともに、
「取り入れられるものは何でもやる。その柔軟さ、その活力が、歌舞伎を四百年、続けさせてきたと思います。でも歌舞伎の品格だけは、きちんと守る。『歌舞伎って何ですか』って聞かれたら、それだけですよ。何でもやるけど、歌舞伎の品格だけは守るっていう以外に、当てはまる定義がないとぼくは思っています」

 三津五郎さんの歌舞伎観が、要約されている。
 現実の舞台も言葉を裏切らなかった。世話物では二代目松緑さんから教わった『魚屋宗五郎』の宗五郎。『髪結新三』の新三、『三千歳直侍』の直次郎などが記憶に残る。芯になる役はもちろんだけれども、『髪結新三』では勝奴や大家も勤め、舞台を盛り上げた。芯と脇と、それぞれの役割を心得ていた。

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。