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初代喜多村禄郎は、明治四年、東京、日本橋の薬種商の子として生まれた。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第二十四回)

 万太郎がはじめて新派の喜多村禄郎と会ったのは、大正四年、鏡花の『日本橋』が、伊井蓉峰の葛木晋三、喜多村禄郎の稲葉屋お考の配役で初演された本郷座の楽屋である。

 鏡花はその前年、小説『日本橋』を、小村雪岱の装幀で本郷曙町の書肆千草館から上梓している。

 刊行される早々、喜多村は上演の許可を鏡花に得た。

 脚色にあたったのは、のちに歌舞伎作者として一家をなす真山青果だが、「生理学教室」の場にこだわりを持った鏡花は、みずから東京帝国大学医学部に調査にでかけ、台本に朱筆を入れ四十五分を費やす長い一場になったと、『新派 百年の歴史』は伝えている。

 上演の運びになったとき、千草館の主人、堀尾成章は、「見物」と呼ばれる観劇会を組織し、『日本橋』の舞台を応援した。

  堀尾は明治四十一年六月に第一回の会合が開かれた鏡花びいきのグループ「鏡花会」の一員で、熱烈な愛読者でもあったからである。その「見物」の折り、万太郎は、鏡花に連れられて楽屋を訪ねた。

 鏡花と喜多村のあいだには、それ以前から交友があった。

 初代喜多村禄郎は、明治四年、東京、日本橋の薬種商の子として生まれた。
 青年時代は、雑俳に凝って鶯亭金升(おうていきんしょう、ルビ)のもとに通い、緑屋小松の名で情歌や都々逸を作ったという。
 粋な日本橋の若旦那である。

 明治二十五年、雑俳の仲間と蛎殻町の有楽館で、素人芝居に出演したのがきっかけとなって、俳優の道に進んだ。
 当時は下町の若旦那たちが、俳句の連座を楽しむように、素人芝居が行われていた。この一座には禄郎とともに新派の創成期をになう伊井蓉峰も出演しているが、この時点では、歌舞伎の女形を真似た演技であったろう。

 北海道で舞台に立つが、はじめて東京の大舞台を踏んだのは、二十六年、浅草吾妻座、福井茂兵衛・青柳捨三郎の合同一座である。翌年には、大阪道頓堀角座で高田実らと「成美団」を結成し、壮士芝居、書生芝居の荒削りな演技からの脱皮を志した。
大正年間には、本郷座、明治座で、伊井蓉峰、河合武雄とともに、「新派三頭目」として時代を築いた新派を代表する名女形であり、花柳章太郎は、その愛弟子である
明治四十一年、十年ぶりで大阪から帰京した新派の喜多村禄郎は、本郷座出演の挨拶回りとして鏡花宅を訪れている。鏡花三十四歳、禄郎三十六歳。
文通はあったが、これを機会に「正に百年の知己で昵懇以上の仲となった」と『新派 百年の歴史』(大手町出版 昭和五十三年)に収められた大江良太郎による喜多村禄郎の聞書は伝えている。
 今でも「新派悲劇」として知られ、劇団新派がくり返し上演する『婦系図』や『日本橋』は、喜多村禄郎の鏡花に対する心酔から生まれた。

 本郷区春木町の本郷座で芝居がはねると、喜多村はそのまま横須賀線にのり、逗子の鏡花を訪ねた。

「……夏の一夜、喜多村禄郎は持参のウィスキーを、鏡花は灘の生一本をちびりちびりやりながら、深更も知らずに互いに語り合っていた」。
 
  団扇を片手にゆかた姿で散歩にでる。
  帰ってみると、二階には、喜多村のために蚊帳が吊られ、床がのべてあった。床の間には、鏡花の師、紅葉の写真が飾ってある。夜具を見ると、北向きをさけるためか、床の間に足がむかうようになっている。

 喜多村は鏡花の恩師を慕う真情を知っていたので、枕の方向に写真を仰ぐかたちに蒲団をしきかえた。女形のたしなみを感じさせる心遣いである。
  ゆかしき交友であった。

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。