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【劇評211】菊五郎と仁左衛門が、切り札を揃えた歌舞伎座第二部。

 歌舞伎は古典を中心とするレパトリーシアターである。
 したがって、俳優には当たり狂言、当り役があり、この人がこの演目を出すならば間違いないと、観客は予想のもとに劇場に出かける。

 大立者は、自家薬籠中の狂言がいつでも出せる状態でなければならぬ。令和三年になってからの歌舞伎座は、こうした大立者の切り札を次々と切ってきた。

 三月大歌舞伎の第二部はその好例である。
 『一谷嫩軍記』の「熊谷陣屋」は上演頻度も高く、名演も多い。そのなかで仁左衛門の「陣屋」は、自在さによって際立っている。

 まず、廟参から帰る道、我が子の死をあきらかにはできな仁左衛門の熊谷が帰ってくる。さすがに足取りは重いが、誇張した表情をつくるのを周到に避けている。

 本舞台では妻相模(孝太郎)が、我が子の安否をかかえこんだまま、敦盛の母、藤の方(門之助)を応接しているが、このふたりに対して直実は一谷嫩軍記の合戦を語る。
 軍語りの場面だが、これも仁左衛門は、過剰な語り口を避けて、内面に悲しみを湛えている。
 孝太郎は「おぉ辛気」に感情が生きて、ていねいな仕事している。門之助の我が子を失ったと信じる嘆きに深さがある。仁左衛門の平山見得は、揺るぎはないが、大仰なところがない。物語の締めくくりとして、ある。

 義経(錦之助)を迎えてからの首実検にいたり、竹本の葵太夫が冴える。制札の見得も内側に抑えているから、かえって大きく見える。
 仁左衛門は前半を、あえて盛り上げすぎずに淡々とやるべきことを進めている。これも、幕切れ、花道からの引っ込みへ向かって高めていくための道筋として冷静に捉えているからである。

 今回はその引っ込みに至るための用意が周到である。
 すなわち錦之助の義経と弥陀六の歌六のやりとりがすぐれる。「陣屋」の成否は、弥陀六の正体を宗清と見破るくだりにある。熊谷直実も宗清もみずからの本心を隠して生きている。それは戦国の世の常とはいえ、辛く、悲しく、辛抱のいる人生ではなかったか。
 
 宗清ずっとかかえこんできた苦しみが観客にしみ通って、直実の武士を捨てる覚悟にいたる。作劇の巧みさももちろんだが、なにより舞台に人を得なければ成立しない。今回の舞台は竹本も含め、とてもよいバランスで舞台が生きた。仁左衛門の自在と充実があってのことである。

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。