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【劇評217】芝翫と菊之助と東蔵が、がっしと向かい合う時代物の真髄「太十」が見逃せない。

 「太十」と書いて、タイジュウと読む。

 はじめ人間浄瑠璃として上演されたとき、『絵本太功記』の十段目「尼ヶ崎閑居の段』として上演されたところから、この俗称がついた。
 ベートーベンでも「田園」「運命」「合唱付」などタイトルが付いている交響曲は、観客に愛される。
 時代物の傑作で、歌舞伎の主立った役柄を網羅しているところから、「菊畑」「新薄雪物語」などと同様、何年かに一度は、上演していかなければならない。つまりは、役者から役者へ、その型、口伝など、伝承を絶やさないでいなければと、幕内の人々は考えているようだ。

 今回の「太十」は、芝翫の武智十兵衛光秀、菊之助の武智十次郎光義の配役である。「本能寺の変」で主君織田信長(劇中では小田春永)を討ち取った事件を題材にしている。
 菊之助は、先月の国立劇場、『時今也桔梗旗揚』で武智光秀を演じている。今月は光秀の息子の十次郎となる。二ヶ月続いての重厚な時代物を勤める。偶然もあるだろうけれども、親と子を、連続して演じるのは、なかなかめずらしい。
 
 さて、まず前半は、菊之助の十次郎と梅枝の初菊の初々しい様子が見物である。この役には、七代目梅幸、十八代目勘三郎の名演がある。
 十次郎は父光秀と真柴久吉の決戦を控え、出陣の覚悟をしている。前髪で紫の裃のしつらえで、舞台中央の暖簾からの出が瑞々しい。

 若衆方の代表的な役であり、平成二十四年、初役で勤めたときから、ずいぶん時間が経過した。この若衆方、若ければ勤めるかというとそんなことはない。ふっくらとした丸み、身体の柔らかなこなしを見せるには、ようやく役者としての時期が訪れたのだとよくわかった。

 特に、出陣ののち、討ち死にを覚悟している心境、そして案じる嫁初菊をたしなめながらも、優しさがある。このあたりのバランスに生彩があった。

 梅枝は、こうした若女方の役をまったく不安なしに、ごく自然に見せていくだけの技倆が備わっている。天禀もあるのだろうが、観客にはみせない努力、稽古が行き届いているとわかる。
 
 十次郎から見て、祖母にあたる東蔵の皐月、母にあたる魁春の操、初菊は、輝かしい若武者の鎧姿となった十次郎を迎えて、盃事となる。東蔵はさすがの年輪で、この難役を見事に運んでいく。

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。