菊之助が「教わる」のではなく、菊之助が「教える」
團十郎襲名が延期になった。つまりは、五月から七月まで、歌舞伎座は開場しないことを意味する。
歌舞伎座は、評論家にとっても、象徴的な劇場なのだろうと思う。古老に聞くと、歌舞伎座の招待日はすべての予定に優先するという。
正月に威儀を正すのはもちろんだけれども、普段の月も、基本的にはジャケット着用が最低限のマナーとなっている。もちろん暗黙の了解ではあるが。
久保田万太郎の随筆を見ると、大正年間までは、評論家は東西の桟敷に居並んだという。
つまりは、観られる存在でもあった。私がその列に入った頃は、もう桟敷ではなく、と、ち、り列あたりに、年功序列で居並んだ。
この暗黙の秩序が生きていたのは、歌舞伎座のさよなら公演あたりまでだろうか。いつのまにか、座席は分散されて、中央にぽっこりと反応の悪い集団が居座るような景色は消えてしまった。
こうしたサロン的な習慣を封建的だと非難するのはやさしい。
けれども、失われた景色は、決して元に戻ることはない。昭和を代表する 演劇評論家の戸板康二先生は、この日を「お社」と呼ぶ習慣を嫌ったのを思い出す。
恐らくコロナウィルスの脅威が去った後には、こうしたシステムさえも、大きく変わっていくのだろう。
劇場には行きたくても行けないので、写真集を取り出しては見ている。
最近購入したのは、写真家岡村隆史の『五代目尾上菊之助』(蔦屋書店)で、オールカラーの大部。お値段もそれなりで、少しためらったがやはり購入して良かったと思った。
『NINAGAWA 十二夜』のロンドン公演から現在まで。ナウシカの初日に発売されたから、昨年五月の丑之助襲名はカヴァーされている。
白眉はもちろん何度も演じてきた『京鹿子娘道成寺』であろう。
菊之助の『道成寺』は、はじめ薔薇の莟を思わせたが、近年、風格が加わり、さらに妖艶な雰囲気を漂わせるようになった。
舞台写真は、美しいだけでは意味がない。
その俳優がまとっている藝風が写っているかが勝負だろう。
その意味で、『五代目尾上菊之助』は、若手随一の女形から、時代物も手がける立役へと、その藝風を変えてきた菊之助の十年が定着されている。
役者もまた、一月一月が過ぎ、毎日、毎日を送り、ひとところに留まることはない。巻末に収められた『土蜘』は、音羽屋の藝だが、玉三郎と『京鹿子娘二人道成寺』を踊り始めたとき、菊之助が『土蜘』の怪異を手のうちとするなど、だれが想像しただろう。
年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。