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【劇評261】奇跡が、見えない壁を作ったのか? イキウメの『関数ドミノ』。

 老いや生のありかたについて、探求を続けてきた前川知大とイキウメが、代表作というべき『関数ドミノ』を上演した。再演から八年を隔てているが、この作品が持つ構造に導かれるように、一気に観て飽きなかった。

 二○○九年、一四年の上演は、前川による作・演出である。今回は、演出を一新し、台本にプロローグとエピローグが追加された。このふたつの場面は、安井順平が演じる真壁薫によるモノローグである。観客席にしみわたるような言葉と身体だった。イキウメが演劇に対していかに真摯に立ち向かっているかがよくわかった。

 プロローグが終わると、出演者全員が舞台上に立つ。
 保険調査員の横道赤彦(温水洋一)は、病院前の交差点で起きた事故を調査している。舞台上にいるのは、事故の当事者で歩行者の左門洋一(大窪人衛)と車を運転していた新田直樹(森下創)をのぞけば、白昼に起きた奇妙な事件の目撃者たちだ。
 横滑りした自動車の間に、歩道で帽子を拾っていた洋一は無傷だった。まるで見えない壁が出来たかのようで、自動車と洋一は、接触した形跡すらない。この「奇跡」をめぐって、真壁は強く主張する。洋一の兄、左門森魚(浜田信也)が「ドミノ」という自らの欲望を叶える力を持っているために、弟洋一は助かったのだと、目撃者らを説き伏せ始める。

 『関数ドミノ』は、この「ドミノ」と呼ばれる力を持った人間が、周囲の人々の生き死にを左右するという仮説を巡って展開する。
 森魚自身は、この力を自覚していない。たとえば、HIVポジティブの土呂弘光(盛隆二)は、森魚が願えば、ポジティブからネガティブへ転じるのでは信じ始め、森魚に接近していく。

 この物語は、人間の願望が衝突するさまを描いている。
 死に至る病をかかえた人間が、現代医学の標準治療だけではなく、あらゆる可能性を探っていくのは自然ななりゆきだ。

 病いだけではない。人は現在の社会のありように満足できない。よりよい理想の社会を作りたいと願うが、この願望は容易には実現されない。かなわぬ願いをかかえこみ、自らの願望に振り回される。そんな人間たちを描いた群像劇となっていた。欲望はときに純粋で、ときに醜い。

 『関数ドミノ』が二○一四年の再演と比較しても、さらに死の問題へと接近しているには理由がある。

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。