【劇評225】野田秀樹作・演出の『フェイクスピア』。予測不可能な世界の果てに、見いだされた言葉とは何か。
閉ざされた箱のなかに、何が封じ込められているのか。
野田秀樹の画期的な問題作『フェイクスピア』は、この謎を追っていく物語である。
フェイクスピアとは、何か。まず、人類史上、最高にして無類の劇作家、シェイクスピアを暗示する。それとともに、フェイク(偽物)が、この劇作の核にあると示している。
現実の舞台は、意外なことに、青森県の恐山から始まる。
冒頭、女優白石加代子は、実名で登場し、俳優となる前には、恐山で故人を呼び出し、口寄せをするイタコの修業をしていたと語る。
周知のように、白石の前職は港区役所税務課の職員である。やがて、「白石加代子」は、役名の皆来アタイを名乗るが、この長いモノローグ自体が、偽りであるとバレることを前提に作られたフィクションであり、フェイクそのものであるとわかる。
劇の前半は、橋爪功の楽(たの)と高橋一生のmonoが、イタコ見習いの皆来アタイを挟んで、シェイクスピアの『リア王』や『オセロ』の断片を演じてみせる件りが連なる。
ふたりは、真実ではない「故人」を、皆来アタイに口寄せしてもらいたいと求める。つまり、ここでフィクションは、二重三重の構造を取るようになり、何が本物で、何が現実なのか、何が事実なのかは、遠く置き去りにされる。
『フェイクスピア』は、トム・ストッパードの『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』のような、シェイクスピアの劇作を巧みに使った知的なモザイクなのではないか。観客のそんな期待は軽々と裏切られる。
私たちが、本物、現実、事実などと、安易に呼んでいることども自体が、まるでらっきょうの皮を剥くように、果てしない重層構造のなかにある。メタ・シアターは現代演劇の象徴的な枠組みではあるが、その効用もどうやら危うい。知的遊戯に耽る時代は過ぎたと語っているかのようだ。
さらにいえば、前田敦子が演じる伝説のイタコが出てくる件りから、物語はさらに横滑りを始め、雪崩落ちるように、観客をつなぎ止める「リアル」が失われていく。
年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。