【劇評350】『妹背山婦女庭訓』と『勧進帳』。藝を後世に手渡す舞台
播磨屋と秀山祭
時が過ぎるたびに二代目吉右衛門の役者としての大きさが胸に迫る。
秀山祭九月大歌舞伎の夜の部は、歌舞伎の代表的な演目が並んだ。なかでも、『妹背山婦女庭訓』の吉野川は、仮花道を使った劇場そのものが桜満開の吉野を写す。重厚な義太夫狂言だけに、そうそう出せる演目ではない。
歌舞伎座の立女形として重い位置にある玉三郎が、あとに続く役者のために、歌舞伎のあるべき姿を示す舞台となった。
花渡しを出すことの意義
大判事清澄と太宰の家が、抜き差しならぬ対立関係にあるところに、入鹿の強権がさらに問題を深刻化させる。その背景を描いた『太宰館花渡しの場』。松緑の大判事、玉三郎の定高を圧するように、巨悪、入鹿が迫る場だけに、吉之丞の蘇我入鹿の出来に左右される。もちろん大判事と定高の受けの芝居も大切になってくる。
「吉野川の場」となってからは、前半、染五郎の染五郎と左近の雛鳥が、上手下手に別れての芝居となる。左近はこざかしい芝居とは無縁で、この深窓の令嬢をまっすぐに演じてる。出だしを助けるのは、腰元たちだが京妙の小菊、玉朗の桔梗が芝居を運ぶ。
上手の染五郎はその美貌が当たりを払う。心ばえのよさも伝わる。ただし、久我之助が大義や恋よりは、自らの個の世界に閉じているように見えるのはなぜか。現代的な主題が導き出されるようにも思えるが、今後の課題となるだろう。
年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。