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【劇評311】伊藤英明の目。人間の欲望に迫る『橋からの眺め』。

 アーサー・ミラーの『橋からの眺め』がNYブロードウェイのコロネットシアターで初演されたのは、一九五五年。すでに七〇年近い時間が過ぎ去り、アメリカ演劇の古典となった。古典となった戯曲が、近年、リバイバルを果たし、見直されている理由は、いくつかある。

 もちろん戯曲自体が持っている本質的な力があってのことだ。それに加えて、現代の演出家たちは、美術家の協力を得て、原作の時代設定や場所にこだわらない斬新な舞台を創り出した。

  ジョー・ヒル=ギビンズ演出、広田敦郎訳、アレックス・ラウド美術・衣裳による『橋からの眺め』は、1950年代のニューヨーク、ブルックリンの風俗にこだわらない。登場人物の整理、戯曲構造の見直しを含む大胆な作業があって、埃まみれの博物館に納められた聖典が今を生きる観客のものとなった。

 ただし、戯曲の本質は見失わない。貧しさから逃れるために、アメリカに不法渡航を試みたイタリア系移民の価値観をくっきりと描き出す。

 フランシス・コッポラ監督の映画の『ゴッドファーザー』を思い出していただければいい。そこでは、家族の強固な結びつきが信じられ、裏切り者は消される。彼らの価値は、アメリカの法に抵触しようとも、揺るがない。ただ、実行するだけだ。

 たとえばエディ(伊藤英明)と、姪のキャサリン(福地桃子)のふたりが、エディの妻ビアトリス(坂井真紀)の前でも、公然といちゃつくさまを執拗に描いている。

撮影:御堂義乘
左から、キャサリン(福地桃子)、マルコ(和田正人)、エディ(伊藤英明)、ロドルフォ(松島庄汰)、ビアトリス(坂井真紀)

 不法移民のマルコ(和田正人)、ロドルフォ(松島庄汰)が、エディの家に迎えられる前から、不穏な関係は、日常化していた。ロドルフォとキャサリンが、親しみを深め、結婚を考えるようになるのは、移民の市民権が深くからんでいる。
 
 アメリカという欲望の帝国では、マネーとセクシュアリティが人間の日常を支配している。
  ジョー・ヒル=ギビンズの演出は、すでに、アメリカの檻のなかで生活するエディ、ビアトリス、キャサリンのなかに、ロドルフォが同化しようとしたときに起きた悲劇を描いている。
 マルコにはいずれは帰るべきイタリアがある。けれど、この家族には、ブルックリンの檻のなかで、欲望を解き放つことさえできずに、ただ、うごめいているほかないように思える。

  ジョー・ヒル=ギビンズと翻訳の広田は、この作品の風俗的な部分を、大胆に刈り込んでいる。
 それは恣意的なカットではなく、むしろ、ミラーが本来持っている純粋さへの希求に焦点を合わせるためだ。

 一○○分の舞台にすることで、登場する人間たちが、ほんの二週間のあいだに、坂を転げ落ちるように、正気を失っていく過程が描き出されていた。人間たちは、迷いなく、最短距離で、破滅へと向かって疾走する。この速度感は、大胆なカットによって、はじめて得られたのだった。

 また、今回の緊密な舞台に仕上がったのは、俳優たちの誠実で、懸命な演技によるものだろう。それぞれの関係性が固定されずに、刻々と変化していく。そのために、登場人物たちの生命が躍動しているように見えた。

 伊藤英明は、この過程で、憔悴していく男を見事に浮かび上がらせる。

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。