夢 その5

僕の住んでいる下宿にはいわゆる床下があった。柱は飴色に染まっていたり白蟻駆除の工事が話題になったりするぐらいには古いアパートで、窓の外には仕切りと三十センチ程の縁側があって、そのさらに下に闇をたたえた洞窟みたいな床下が広がっていた。

 夏になると僕はよくその縁側に足をぶらつかせて、日光に焼けた縁框の石の上で打ち水をして遊んでいた。水のひるひると音を立てて蒸発していくのが面白くって、飲みかけの麦茶だったりペットボトルの水なんかを、惜しげもなくじょろじょろと流していた。対偶としての夏を含む冷ややかな液体は茹だった体には暑すぎて、石で温くなった液体の上で足を滑らせる程度が僕にはちょうどよかった。現代にとって夏はもはや暑い限りのものではなくなっているが、僕はできる範囲の行為で固定されつつある観念にささやかな抵抗を試みていた。

 床下はしかし夏であって夏ではなかった。重く湿った空気は夏。けれども空気の湿り気は髄に染み渡るように冷たい。そして全ての判別をつかせないような闇。春でも夏でも秋でも冬でも、常に変わらない風景がそこには広がっている。僕は床下が好きだった。框での遊びに飽きた時には(たいてい夏だったが)、伸び放題の夏草がしげる庭にサンダルひとつで降りて低く低くしゃがみ込み、電灯を使わずに暗がりを延々と眺めていた。足元から続く地面はそのまま伸びて、やがて無窮にも思われる床下の闇に吸い込まれている。どちらも動かず、僕の影だけが呼吸に合わせてゆらゆらと動いている。そこには小さな海と空があった。地平線の彼方で両者が溶け合うように、床の裏と地面は闇の彼方で境界を曖昧にしているように見えた。私は浜堤の上で船を眺めるように、苔むした石が闇のまにまに漂っている様子を見ていた。

「何をしているんだい」

 バリトンの声が僕の右後ろから響いてきた。語りかけるというよりも自然に響いたという形容の方が正しいような、そんな声だった。例えば地震の地鳴りというのは誰かのためにあるのではない。雷鳴が誰かに「この辺りで一番高い建物はなんですか?」などと語りかけることもないだろう。僕たちは重苦しい響きが僕たち自身への語り掛けであると錯覚してしまいがちではあるが、それらの幻想は僕たちの脳裏に閃く発想以外のものではない。要するに、その言葉は疑問のように感じ取れたというだけであって、決して僕自身への疑問という体裁をとっていたのではなかった。

 振り返ると猫がいた。白と茶色、黒の三色からなる三毛猫で、しなやかな体を置物のようにじっとさせて、まるで天地開闢の瞬間からそこにいたとでも言いたいかのように、エノコログサの茂みの中に存在していた。もちろんアパートの垣根ぐらい猫が越えることは簡単なのだろうが、そうであるとしてもあまりに超然とした登場だったので、僕は呆気に取られていた。

「いや、驚かしてすまない。あんまり熱心に暗みを眺めているもんだから、一寸気になってしまってね」

こちらの動揺はおそらく猫にも伝わっていたのだろう。猫は苦笑するように(猫なのだから笑うことはなかったが)そう弁解した。

「別にいいけど……何か不都合とかがあったかな。例えばここが…君の住処だったりとか?」

「いやいや、本当に興味本位だったんだ。キミのような人間が床下を熱心に眺めることなんて、それこそ水道管の破裂や白蟻退治ぐらいしか知らなかったものでね」

「そういうわけじゃないんだ。僕はただ、この暗がりが面白かったものでね」

 僕がそう告げると、彼(彼女という可能性もある)は瞳孔を少し大きくした。人間が表情を眉毛や口角の上げ具合で変えるように、猫は目によって表情を作っていると知った。

「ここは現実と非現実、存在と非存在の合間にある場所だ」

 そう告げた猫は少し間をあけて、続きを話し始めた。

「猫には人間にはない感覚器官がある。それは生きているものと生きていないものがいる世界の中間に”ある”ものたちを感じられるようにする器官だ。私たち自身、それがなんのためについているのかはわかっていない。なにしろ猫というのは長期的な展望や思索というものを持たないからね。科学なんて言葉は私たちの社会には存在していない(と言いながら彼は科学について一家言持っているようだった)」

「とはいえ、私たちが人間のような思考能力を持っていないかと問われればそれはNoだ。キミたちの言葉で言う哲学、Philosophyみたいな学問体系は猫社会でも脈々と受け継がれている。猫の言葉ではNyangnyaaagというんだが(と言って彼は唸りのような発音を喉から捻り出した)。私たちはその中で、『なぜしっぽはかくもふにゃふにゃなのか』のような話題から、『猫的形而上学が猫社会契約論に与えた猫的な王権論、あるいは思想体系への弁証法について』などに至るまでのあらゆる疑問について答えようとしている」

「話題が逸れてしまったな。猫感覚についての話だった。一言に猫感覚と言ってしまっても、それが捉える感覚を総体として理解しておくことは非常に難しい。猫が何もない空間を一心に見つめていることがあるだろう。ああいうときに猫は猫感覚を使っているのだが、使っている猫自身でさえも自分が何を知覚しているのかわかってはいないだろう。しかし人間にはわかっていない、そこになんらかがーー存在していないにも関わらず、現世での形とは違った方法で何かがーーある、ということは感覚で感知できるんだ。」

「先ほども話した通り、これがなんのためについているのかはわかっている猫はいない。しかし私たちはこれを無意識に用いながら、キミたち人間と同じ世界を認識している。これはなかなか面白いよ。何せキミたちはあやふやな何かが周りに漂っていたとしてもそれに気づくことはできないんだから」

「さて、床下の話に入ろう。キミが先ほどまで眺めていた場所は、そんな猫感覚を用いて初めて判る空間だ。私たちの専門用語ではNgnyannagというこの場所はいわば人間社会に開いたエアーポケットのようなもので、中では全てのーー本当に全てのものーーが猫感覚でしか捉えられないくらいに希薄な形となってしまう。ほら、奥の方を除いて見たまえ」

 そう言って猫は尻尾で暗がりの奥を指した。覗いてみたが、先ほど見たような暗がり以外に見えるものはなかった。僕がそう抗議すると、猫はくすりと微笑んだ。

「すまない、指してみたはもののやはりこの空間はキミたち人間には知覚できないようだ。ごく稀に、何かぼんやりとしたものがあることを感じ取れる人間はいるのだが、猫感覚ほどに鋭敏に認識しているというわけではないみたいだ」

「猫は死期が近づくにつれ、その影をより濃厚に感じることができるようになっていく。それまでは見えなかった世界が、自分たちのすぐ横に寝転んでいたことに気づいていく。キミ、するとどうなると思う?」

 唐突な問いに僕は答えられずにいた。弁解させてほしいのだが、突然現れて訳のわからない話を始めた猫が、さらに訳のわからない質問をしてきたとして、一体誰がまともな返答をできるというのだろうか?猫にもその辺りの事情は飲み込めていたと見え、まごつく僕をよそに平然と答えを述べた。

「どうしようもなく惹かれるのさ。そこに」

 蝉の音が急に耳につき始めた。置物のようにじっとしていた猫はゆっくりと歩き始めていた。肉球が歩みから音を消し去っていた。僕は脇の下を流れる汗を確かに感じた。

「例えば何十人もが住んでは去っていった古いアパートの下、孤独死したおばあさんがかつて住んでいた一軒家の床下、夏草がぼうぼうに茂って、やがては跡形もなく枯れていってしまうような庭の先に、暗くて鼻みたいにじっとりと湿ったその場所はある。ここみたいなね」

「死は古くからの友達みたいに予告なく猫の前に現れる。猫は人間みたいに見苦しく抗ったりはしない。静かに死を受け入れるだけだ。だけれど決して死にたいって訳じゃない。人間みたいに、出来うる限りその太くて長い腕から、身をちぎってでも逃れたいって猫も、ほんとうに少ないとはいえ存在する。彼らが行き着くのが、猫感覚でだけたどり着けるこの暗がりさ」

「そこでは存在も非存在もない。現実も非現実もない。奥の奥の奥まで入り込んでしまったら最後、出てくることも出してもらうこともできやしない。存在は生きていた頃とは全く別物の何かに成り果ててしまう。でも、そこには死だって存在していない。外部から認識する限りでは永遠に、曖昧な存在の中で”あり”続けることができる」

 僕は黙って聞いていた。青臭い匂いが太陽に焼かれた僕の鼻を刺し、虫が不快な音を立てて僕の耳をかすめていった。世界は依然としてそこにあったが、以前に比べるとその濃さが若干薄まっているように感じられた。

「場所に近づくにつれ、猫は猫で無くなっていく。猫であること、いや存在であることを止めようとしているのだからある意味当たり前なのかもしれないけどね。人間の心だって判るし、人間に心を解らせることだってできるようになる。猫の言葉は窮屈だけど、そこから抜け出ることだってできるようになる」

 彼はそこで言葉を止めると、するりと僕の横を通り抜けた。そして僕の鼻をそのしなやかな尻尾で一と撫ですると、框の石の奥へと歩みを進めていった。

「これが正しいことなのかはわからない」

 彼は振り返らず、歩みを止めずに言った。

「けれど、終わってしまうよりは、消えてしまうよりは」

「そう思ってしまったんだ」

 そこまでいうと彼は速度を速めた。そして脱兎の如く地面を蹴って、どこへとも知らない闇の中へと消えていった。

 

 後に残ったのは、焼けた石と耳から離れてくれそうもない蝉の声、そして僕の静かな同情だけだった。 

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