月の大気  書きかけ

今書いてる作品の冒頭です。こうして「続き書くぞ!」という気概を見せておかないと、いつまでも書けなさそうなのでひとまず置いときます。
最後まで書き終えたら完成版を出します。



先生は剥がれた皮膚もはみ出した十二指腸も意に介さず、仮定法過去の用例を黒板に書き始めた。

I wish I could have taken up on 7 a.m. I wish I could have spoken English then.

「この文章みたいに、仮定法過去は必ずしもイフが必要ってわけじゃありません。動詞と助動詞の用法、そして込められたニュアンスを感じ取ってあげることが大事なんです。例えばこの文章では……」

そう話している間に腸の先端はうどんのようにずるりと溢れて、今や教壇の桧にポタポタと血やら消化液やらよくわからない雫を垂らしていた。カツ、カツと、気だるい五限目の教室にチョークの音が響く。弛緩した空気を揺らす鋭利な音に合わせて腸はだらしなく垂れ下がり、しまいには先生の靴の上、そして木目の上に薄桃色のとぐろを巻いてしまった。鮮やかとも言い切れない色で表面はてらてらと光っていて触ったら押し返されるような張りのある質感と消化真っ只中の焼きそばらしきものが放つ臭気やスニーカーに付く黒めの染みが、と見たところで僕は手をあげて許可を取るのもそこそこに男子トイレの個室へと駆け込んで吐いていた。

掃除が行き届いている、というより使われていないがために白い大便器の朝顔に、吐瀉物はさっき見たような黒い染みを残して流れていく。ざらつく歯の裏を舌でなぞり、タイルに静かに寄りかかる。手のひらを刺すような冷たさに現実を認識させられて、一つ大きな息をついた。目を閉じれば木目に浸透しつつあった液体が眼窩に満ちていくような気がして、瞬きすら躊躇われる。

何が起こっているのだろう。クラスメイトたちは一人としてあの光景を異常だとしていないようだった。誰も声ひとつあげずに仮定法や昨日の夜の地震やら次回の対バン企画などに想いを馳せていて、むしろ急に去った友人に驚いているようでもあった。そもそもあの先生自体自分に起こりつつある事態に無自覚だった。痛みどころか彼の全ての感覚器官はさしたる問題を訴えていないらしい。消化器というのは口から肛門まで一続きの器官であって、皮膚がべろりとなることは一万歩譲って起こりうるとしても一部が脱落して垂れ下がるというのは致命の事実であることには間違いない。グーグルで調べた情報は役立ちそうにない。そこでやっと自分が幻覚を見ている可能性を詳細に考えられた。

タイルの目地のざらつきを撫でる。込み上げる吐き気を抑えながら、先ほどの情景をゆっくりと振り返る。幻覚とするにはあまりにもリアルな、いやだからこそ幻覚なのかもしれないが、ともかくも濡れたあの形がどうして僕の前にあらわれたのだろうか。昨日の夕食の野菜炒めに妙な茸でも入っていただろうか。もしくは知らぬ間にパーキンソン病やら統合失調症でも発症してしまったのだろうか。知覚した存在の圧倒的な非現実性に打ちひしがれて細部まで見ようとも考えなかったが、あの物体、言うなれば自分の体の中にもある物体があんなにも光っていることがなぜこんなにも恐ろしいのだろうか。なんにせよ戻って色々と確かめてみる他ない。自分と世界のどちらがおかしくなっているのか、とふと考えて、その考察が行き着く無意味さを目の当たりにした。

廊下の窓から見える曇り空は、冬めいた冷徹さを纏ってぼんやりと世界を翳らせていた。かと思えばカーテンのように侵入する光線が一筋遠くのビル群に差し込んで、モノクロの世界の遠近を微かに崩していた。誰もいない教室までの道のりは、しかし通り過ぎる教室から漏れた人々の声で静まり返っているとは言えない。ただその中でも自分の足音と心音が変に体内に響いた。その度に生きるというのはなんてにくにくしいんだろうと心の中で呟く。

迷いを振り切るためにわざと大きな音を立てる、つもりがそろそろと開けてしまった教室のドアの先には、少し驚いたような表情をしつつ腸を踏みつけている先生の姿があった。

「おい鹿島、お前大丈夫か。顔もかなり青いようだけど、」

先生の顔色は平常時と変わらない。ただ体重移動に合わせてぐじゅりと音が鳴る、その音に耐えかねてはっきりと大きく発声する。

「いえ大丈夫です、授業中すみませんでした」

「それはいいんだけど……まあいい、なら席につきな。具合が悪かったらこことか、保健室で休んでてもいいからな」

「ありがとうございます」

話している間にも先生が体をこちらに向けたために流路を変えた分泌液が上靴の底をじっとり濡らしている。拒む間も無く頭が勝手に迷路のような靴底を進んで冒す血漿やら胃液やらのイメージを再生する。席に戻るため教壇を降りると足音まで湿っていた。酸性の匂いが鼻につき、涙が勝手に溢れ出ようとする。椅子を跳ね除けたままの自席に戻ると、隣の席の友人が心配そうな顔でこちらを眺めていた。彼女の左の目が開かれたノートの上に落ちて少し転がった。一欠の視線が交錯した。

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