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「お金がもっともっとあっても、今と同じことをしているか?」

友人が、TOCCHIのSwing Remixという歌の歌詞がいいよと教えてくれた。その教えてくれた意図は何かと問うたら、「お金と地位をもっともっと手に入れても、今やってることをやるか?、ってこと」だと返ってきた。

はっとした。


「お金がなくても生きていけるように」は、いやというほど考えてきたけれど、「お金があったら」は、ほとんど考えたことがなかった。その原因は、大学生の間はお金を好きなだけ使えるわけじゃないからということもあるだろうけれど、実際は、問題はそれよりももっと根深いところにあった。


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具体的にこれといった出来事はまだ思い浮かばないけれど、家庭環境の影響は大きいと思う。地方の地元の小中学校では、贅沢な暮らしをしていることで嫌味っぽく言われることも多かったから、その小さな痛みが癒えないでいたのかもしれない。裕福だけれど厳しい自分の家庭と、それほど裕福には見えないけれど明るく楽しそうな いとこの家庭とを、単純に比較したまま大人になってしまったのかもしれない。


そして何より、お金を持つ人とそうでない人の拭えない差が、一定層が苦しむその変わらない社会構造が、ずっと悔しかった。


「お金を持ってはいけない」という、強い刷り込みは、わたしなりの優しさでもあったのだと思う。狭く暗い部屋に住み、きれいとは言えない服を着て登校していたの小学校時代の友だちを思い出して、奨学金返済の未来を加味した進路を考えながら、生活費を自分で稼ぎながら大学に通う友だちに出会って、そういった人たちの苦しさを知らなければと思った。



とにかく、あまりにも「お金がない」自分ばかりを描いていきてきたから、先日コーチングを受けたときにも、「今お金と時間が十分にあったら何をしたい?」と聞かれたけれど、何も浮かんでこなかった。


お金に頼らず生きる力をつけようとしてきたことは、決して無駄ではなかったし、むしろ、今の社会に疑問を投げかける役割を担うにはうってつけだったと思う。だけれど、その前向きな意志がいつのまにか、「お金を持つことは悪いこと」と自分をきつく縛る固定観念になってしまっていて、苦しくなった。自分の口から発せられる「やりたいこと」が、どれも、誰かに操られて発されている言葉のように感じた。


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「自分が我慢することで、誰かが幸せになるわけではないのだ」と気づいたら、社会とその中にいる自分の役割とを、もっとまっすぐな視点で見れるような気がしてきた。


「お金と地位がもっともっとあっても、今と同じことをしているか?」


社会に出る一歩手前の今、気づけて良かったと思う。これまでとは180度違った視点で、自分自身の進む方向を選んでいけたらいい。

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