童話『クスノキの鐘』前編
「そろそろ巣立ちかね?」
梅雨もそろそろ終わりに近づき、空は何日かぶりに晴れ渡っています。丘の上のクスノキは、カラスのお母さんに声をかけました。数年前からカラスの夫婦はクスノキの枝を借りて巣を作り、子育てをしているのです。春に少し葉を落とすものの一年中緑の葉を茂らせる上に、丘の上のクスノキは幹も太く、四方に長い枝を伸ばしているので敵から見つかりにくく、巣を作るには最高の場所でした。
「そうですね。もういつでもって私は思ってるんですけど」
カラスのお母さんは、あちらこちらの梢を飛び回っている子ガラスを見上げながら言いました。
「寂しくなるのう」
「また来年もお世話になりますわ」
子供が巣立つと夫婦は食べ物が手に入りやすく、暮らしやすい町へ出て、翌年の春まで戻ってきません。
「クスノキのおじいさん」と子ガラスが巣に降りてきました。体はまだ大人より小さいけれど、飛ぶのには慣れたようです。
「何だい、坊?」
「前から思ってたんだけど、あれは何?」
巣の少し下の枝に古い鐘が吊り下げられていました。
「鐘というものだ。ワシの父親の形見だよ」
「形見?」
「大切なものってことよ。つついたり乗ったりしてはだめよ」
「そんなことするもんか」
子ガラスは首を傾げながら鐘を見ています。
「何に使うものなの?」
「時刻を知らせるために、人間が使っていたのさ。音が鳴るらしいが、ワシも聞いたことはないんだよ」
クスノキが生まれる前、村の人達がお金を出し合って作った鐘でした。時を知らせ、喜び事や悲しい事があった時にも鳴らされていました。
もう誰も鳴らすことのない鐘。今は錆びつき、音を鳴らす舌も動きにくくなっています。村で一番年を取っているハンスじいさんのおじいさんが子供の頃に鳴ったのが最後だと、クスノキは聞いたことがありました。
その代わりにクスノキにはカラスの親子だけでなく、たくさんの鳥がやってきて、早朝や夕方は大変なにぎわいです。渡り鳥も旅の途中で羽を休めます。他の動物達や人間も大きな木陰で夏の暑さを忘れ、夕立の時には雨宿り。冬には北風から守ってもらいました。クスノキは動物達から「クスノキのおじいさん」と慕われ、クスノキもまた動物達と話したり、時には嬉しそうに、枝だけでなく幹まで揺らして笑うこともありました。
丘の上からは遠くを見渡すことができます。丘の下には村。その向こうには町があり、そのずっと向こうには、きらきら輝く海があります。その海に黒い雲が現れ、風に乗って少しずつ丘に近づいていました。
「いやな風だな」
村はずれに住む、ハンスじいさんは空を見上げてつぶやきました。海から強い風が吹くと、嵐になることを知っていたからです。
「あまり荒れないでくれるといいが」
窓際の椅子に座ってパイプを吸いながら、ハンスはおじいさんのことを思い出していました。丘の上でクスノキの木陰に並んで座り、遠くの海を眺めていた日のことを。ハンスは子供の頃からクスノキが大好きでした。大きくてたくましい船乗りだったおじいさんそっくりだったから。自分も船乗りになって世界中を旅した頃も楽しかったけれど、引退した今の生活にも満足していました。村で一番年を取ったけれど、自分より年を取ったおじいさんクスノキが丘の上から変わらず見守ってくれているのですから。
風が強くなってきました。雨は激しさを増し、横殴りに窓を叩きます。まっ黒な雲に覆われた村は昼なのに薄暗く、時折稲光に照らされて道や向かいの家、太い線を引くような雨がはっきりと浮かび上がりました。
ハンスは子供の頃におじいさんから聞いた話を思い出しました。クスノキの鐘が最後に鳴った日のことです。その話とあまりによく似た嵐に、胸騒ぎを覚えながら、ハンスはクスノキを見上げました。クスノキは雨にかすみ、風に揺れていました。
〈つづく〉
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