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ティラノサウルス・リアリティ・ショック

 「つまりこういうことだよ!」と私が指を指すと隣の友達だけでなく家族づれやカップル、走る子供に泣く子供、音楽を聴きながら歩く陰もみんな揃って指の先にある猿山で腰振る猿(「星降る夜」と「腰振る猿」で韻が踏める)に気が付きほっこりとした顔になりまたどこかへ歩いていく。

土曜の昼下がりに男が二人、

 その筋の通(院が必要な人々)を唸らせることで評判のスポットを終えて新潟県のイタリアンではない方のイタリアンに舌鼓を打った土曜日、腹ごなしがてら一駅くらい歩こうと閑静な住宅街を歩いていた。

ショックを受けるとわからなくなる

 近況を交えて談笑していると以下のものが視界に入った。

さすが都内有数の地価になっている地域だ。

 そう、ティラノサウルスである。暖かい日だったから彼も散歩へ出掛けて昼飯につけ麺を食べて体が冷えてしまったのだろう、室外機の暖気にあたりなんとか立て直そうと努力したが遅れたきた満腹感と暖かさが合わさり寝てしまった。

 真相はわからないがこういうこともある。歩いているとティラノサウルスに出会うこともある。ここで言いたいことは「だから出歩こう」ということではなく「いざ目にするとわからないことがある」ということだ。わかるか、このティラノサウルスが。例えばランドで売っている耳とか被り物を目にしてその時すぐそれが何かわからない人もいる。しかし後から「ああ、もしかしたらこういうことか」とわかる日を迎えることがあれば認識したタイミングとわかったタイミングが同一でなくとも認識したものをわかることができるということだ。
 例えば耳や被り物とこのティラノサウルスは”そういった趣向を好む人々の既にある興奮を拡張する機能”において同一であり広義の『リピドークロス』に分類することが適当である、と翌日にわかることだってある。

腰振る猿の下で

 人々は突如として腰振る猿を目にした。年齢や出身、生育歴、人種すら異なり「今日なぜここにいたのか?」も異なる人々がその瞬間に一つの対象を認識したのだ。彼らがそれまで何を思い、何を見て、何を会話していたかも不明である。だがあの瞬間、人々は「我ら」になり直後に人々へ戻ったといえる。「つまりこういうことだよ!」という大声と明確に示された指先に反応して白昼堂々ボス猿のなんたるかを目撃した体験が人々に共通を与えて「我ら」にした。だがそれが終わってしまえば「我ら」はまたそれぞれの人々へ戻り日常に戻っていった。これを日常空間から一瞬にして非日常空間に飛ばされ、そしてまた瞬間的に日常空間へ戻ったと解釈するならば非日常空間には人々を「我ら」にする、もっといえば共同体構成員にする機能があるのではないかとも考えることができる。

空間転移

ショックの有無

 自己の自由意志(それがあるかの議論は別として)に基づいて自ら非日常空間へ入る人、外部からの刺激を受けて非日常空間へ入れられた人、入ってきた経緯は違えど入ってしまったら人々はその空間とその中にあるものを共有してしまう。ハレとケ、ウチとソト、日常と非日常を示す言い回しは数あるが日常から非日常へ入るその瞬間には必ずと言っていいほど精神的な刺激、ショックがある。そして非日常空間に慣れるにつれてショックも薄れ、ついに何も感じなくなったときはその人にとっての非日常空間が日常空間になる。
 日常空間を定義しなければ非日常空間を定義することはできない、とは空間における中身の定義をする場合の話であって空間と空間との間を越境した際に生じる現象が確認できれば一つの宇宙空間にあってもそれまでいた空間と今からいる空間に分けることができる。これはあくまで認識の上で、形而上学的ともいえる手法だが人間が外部からの刺激を受けるとはその人は「刺激を受ける前/刺激を受ける後」に分断される。もっといえば「刺激を受ける前/刺激を受けた後/刺激を感じなくなった時」の三つになる。この手法を使える例としてはある日「刺激を感じなくなった」との理由で人間関係の解消を申し出られた場合は申請者にとってあなたは非日常であり日常空間を共にしたいとか自身の日常空間へ入れたいなどの動機はそもそも無かったと推定する際にこの手法が有効であろう。

 外部からの刺激によって日常と非日常が分別される。この刺激の内容は人間にとって精神的な刺激であればなんでも良い。そして刺激の強弱は日常と非日常の間に距離を生じさせ、人によっては刺激そのものを好意的に受け取り特定の刺激が趣味趣向になったり時として依存のような状態になったりもする。つらく苦しく好ましくない日常空間を抱えている人が刺激を受けてそういったものが無い非日常空間へ移った時、果たしてその人は日常空間へ帰りたいと思うのだろうか。そして非日常空間にあってもつらく苦しく好ましくない何かが増えていき、いつしかそこがかつての日常空間と意味的に同一になった時、その人はどこへ行くのだろうか。取材班はその謎の答えを求めて新宿区歌舞伎町へ調査に行かない。

 発見も外部からの刺激であり、発見は既知になるが既知より未知が多い者は幸福である。それは新たな空間の存在可能性だから。

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