見出し画像

ツバメのR

 寒さで起きて暑さで休む今日を三寒四温と言ってくれるな。

G.Zuiko Auto-W 1:3.5 f=28mm

 今日は広角単焦点一本で行くぞと久しぶりに散歩へ出かけた。レンズはOLYMPUSの定番広角単焦点、明るさはf3.5と数字だけ見れば暗いように思えるかも知れないが写りの良さに一定の評価を得ているレンズだ。

G.Zuiko Auto-W 1:3.5 f=28mm

 五月晴れの抜けるような晴れ出会っても絞ればトビもなく質感も立つ。ただし画面は円形に歪む。歪む理屈はあるが今回の記事は歪みについてだ。

R=?

 川沿いにある日陰のベンチに座り水分補給なしのぶっ通しプレイを敢行するゲートボールプレイヤーたちを眺めながら休んでいた。帽子に長袖長ズボンと熱中症対策はしても水分補給は無しというプレイスタイルはきっとチキンレースを同時開催しているのだろう。日陰はちょうど良い風が吹き、空を見上げると鳥が何羽か飛び回っている。

 鳴き声やシルエットの違いで似たような大きさの鳥が飛んでいてももざっくりと「なんか違うな」と推測するくらいの感覚でも広角レンズのように広く空間をとりながら動きを観察すると一種類だけ飛び方が違う鳥がいることに気がついた。文字通り燕尾服のような尾があったのであれはきっとツバメだと思う。
 スズメやスズメより少し大きいくらいの鳥も飛んでいたがツバメと推測したそれはかなりキツいRを作りながら飛んでいた。ここでいうRとは高速道路の標識でよく見かけるRだ。これは円の半径を意味しておりRの後につく数字の値で半径の長さを表している。値が大きくなれば緩やかなカーブ、小さくなれば急なカーブで「この先に見た目と違う急な曲がり道があるから減速しろ」の意味だ。
 この日は風があった。最初に見た時は風に煽られて飛び方が、と思ったがどうも観察しているとツバメと他の鳥は同じ環境でも違う動きをしていることに気がついた。他の鳥はツバメより低空、川面に近い辺りを不規則に飛んでいるがツバメはそれより上を常に曲がりながら飛んでいた。この常に、というのが妙なところで観察していた限りでは全くといっていいほど直線的な動きが無かった。風を受けて飛び方にブレが生じることはツバメより低空を飛んでいた鳥たちの不規則さから感じ取れたがその不規則さとは異なる、いってしまえば意図したような曲がり方でツバメは飛んでいた。「8」を描くような動きで2回か3回くらい同じ辺りをすっと飛んだら少し位置を変えてまた違う位置で似たような動きを繰り返す。他の鳥は不規則ながらもこの動きは見られずRでいえばツバメより大きい値のRで滑空するように飛んでいた。
 より大きな鳥、カラスや鴨もいたがこのくらいの大きさになるとカラスは木から地上に降りて何かを加えて木へ戻る直線的な動き、鴨は離れた位置への移動として直線的な動きをしていた。午前中の気温が上がってきた頃ということで太陽は天頂方向にあり見通しはよく、虫なども活発になるだろうから鳥たちにとっては活動や餌集めの時間であろうとは思う。現にムクドリやカラスが何かをくちばしに咥えていたのは見ることができた。しかしあの時に飛んでいたツバメは川面の方へ降りるような動きもなく、当然ながら何かを咥えている姿も見ることができなかった。筆者の曖昧な記憶にツバメは飛んでいる羽虫を餌にするとどこかで聞いた覚えがあるから地上を餌場にする鳥たちと空中を餌場にするツバメで棲み分けがされていて羽虫を効率よくとるためにあの動きで飛んでいた、と仮定するとまぁきっとそうだろうなくらいには思うことができる。

自分の目でしか見えない

 ”思うことができる。”を言い換えれば「思うことしかできない」になる。筆者は鳥類の研究をしているわけでもなく、また人間を含め他の生き物が何を思い感じているかを我が身のように認知することができない。当然である。それは我が身ではないからだ。
 公園で大人の足で二歩か三歩くらいの坂を園児たちがそりで滑り遊んでいた。彼らはあの坂を全力で楽しんでいるように見えた。身体の物理的な大きさの違いは一つの坂でも楽しみに違いを生じさせるほど残酷だ。今の自分ではあの坂をあの園児たちのように楽しむことはできない。「見えた」と「できない」これはどちらも筆者の視点と感じ方であり、実際にあの園児たちが今世紀最大の興奮をあの坂から獲得していたかはわからない。だが見えるとできない、この二つを筆者は獲得できた。ここに自他の決定的な境界があると推測する。ホモ・サピエンスという枠でいえば同じ枠だが自分と彼らは違う。車という枠なら軽自動車と大型トラック、自転車は同じだが獲得できる体験はそれぞれ異なっており、必要な免許証も違う。読者諸賢は大型トラックの視野と自転車の視野は違うと教習所で習ったであろう。枠で言えば同じ、しかし実態は全く違う。そんなものだけがこの世を動き回っている。

孤独な広角

G.Zuiko Auto-W 1:3.5 f=28mm

 広角レンズは広く撮れる。だが気をつけなければ何かを撮ったようでその実、何も撮れていない写真ができてしまう。筆者も広角レンズと似たようなものでふと何かをわかったような気にはなれどその実、何もわかっていない。そしてわかることなど滅多になく、猫一匹鳥一羽人間一人どれもその瞬間に何をどう感じて何を思っているかなどわからない。

 望遠マクロのように寄るレンズならともかく、そこにあるのは28mm広角単焦点。空飛ぶツバメのようなものが本当にツバメかも確かめられない。仮にこのレンズで寄れたとしても撮れた写真は歪んで撮れている。筆者の手持ちには実態を実態のまま捉えるレンズなど一本もなく、ファインダーから見える像も撮れた写真もすべてを歪んでいる。同じように筆者が何かに対して思うことも見えることも、必ずどこかが歪んでいるのだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?