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孤高のバーテンダー

僕は澁谷でBARを経営している。オーナー兼バーテンダーだ。
僕は時々客に尋ねる。居酒屋とBARの違いはなんなのかって。
店を見廻して考えてみろとヒントを与えても、まず正解を答えられる人はいない。

答えは時計だ。普通BARに時計は置いていない。BARは非日常空間だから、時間を気にせず楽しんで欲しい為だ。

今夜も僕はカウンターに立つ。オーナーシェフならず、オーナーバーテンダーだから当然だ。従業員は他にアルバイトの恵子。この恵子目当てに来る客も多い。

もっぱら僕が酒を作り、恵子がおつまみや軽食を作る。今のところ上手くいってると言っていいだろう。

僕は東京大学を卒業した後、総合商社に3年間勤め、退社してからは赤坂のBARで2年間バーテンの修行をした。その後、起業して現在に至るというわけだ。

バーテンダーという職業がら、客から恋愛相談や悩み事を打ち明けられることも頻繁にある。数奇な運命をかいま見せられる。先日もそんな出来事があった。

その初老の男性は、仕立ての良いブランドスーツに身を包み、ブランド物のビジネスバックを持っていた。
男が語りだした。「私は福岡生まれで、生命保険会社の北九州支店に勤めていました。そこの
同じ部の女性と結婚して、一男一女をもうけました。そして、大阪支店に転勤してから家を買ったんですよ。そこが私の人生の頂点でしたね。今思えば」
一杯目のオンザロックを飲み干すとそう言った。

「子供たちはスクスクと育ってくれました。家内が懸命に育ててくれたのでしょう。私は大阪から、東北、北海道、北陸、関東、と転勤続きでしてね、子らの学校がありますから単身赴任でしたよ」
男は深く溜息をつくと、おかわり、とグラスを滑らせた。

「そこからが転落の人生でした。競馬にハマってしまったのです。職場の皆んながやっているのを見よう見まねで。もちろん、素人が勝てるほど甘くはありません。すぐに小遣いが足りなくなりました。妻の家に帰る旅費も必要でしたし。仕方なくサラ金でお金を借りてしまいました。サラ金の返済日が来ると、銀行のカードローンに手が伸びました。作れるだけクレジットカードを作り、キャッシングを重ねました。やがて限界がやってきました」
男はそこまで一気に話すと、ズボンのポケットからハンカチを取り出し、眼鏡のレンズを拭った。

「やがて支払いが滞ると、会社や妻に知られてしまいました。会社には居づらくなり、妻には顔が合わせられず、僕は失踪しました。何もかも捨てて」
男はハンカチを目頭に当てると、涙を堪えているようだった。

「それ以来、妻とも子供たちにも会っていません。会いたいですが、今さら会えるわけもありません。
現在私は名前を変えて、知人の会社を手伝っています」

この時、僕の隣に立っていた恵子の左手がブルブルと震えているのに気がついた。確か恵子は九州出身だったはずだ。

 ◇この項続く◇


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