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祖父が亡くなった日

祖父にとって私は初めての孫だった。
祖父は太っており、よく冗談を言う、ゴルフと釣りが好きな4人兄弟の次男だった。

祖父の弟はシカゴに住んでおり、ある時腎臓病という病気にかかった。
祖父は弟の病気を治す為に、自分の肝臓を移植しに渡米をした。
手術は無事成功したが、その何年か後、祖父の弟は帰らぬ人となった。
私はまだその頃小学生で、当時の事はあまり覚えていない。

幼い頃から、祖父は本当に色々な場所へ連れて行ってくれた。
竹とんぼやベーゴマで遊べる公園、がってん寿司や自衛隊の基地、釣り堀、旅行…。

当時はそれが普通のことで、自分も大人になれば当たり前にがってん寿司や旅行へ行くのだと思っていた。

大人になった私は、旅行はもちろんのこと、がってん寿司にすら行けていない。
この年齢になり、祖父は相当私たちへお金を使ってくれていたことに気づく。
この頃も祖父は元気で、太っていた。

そんな祖父に変化があったのは、私が中学2年生の頃だった。

肺気腫という病気になり、手術をした。
少し歩いただけでヒューヒューと息が上がり、ゆっくりとしか歩けなくなった。

そこから祖父の移動手段は車になった。
病気になった後も祖父は、車で私を色々な場所へ連れて行ってくれた。
ショッピングモール、本屋、外食、東京、栃木…
中学、高校と学校へ行かない私を、責めもせずよく外へ連れて行ってくれた。
中でもよく行ったのは、ちゃくちゃくちゃくという服が100円〜300円で買える古着屋だった。
祖父も私の買い物ついでに、たまに自分のシャツを買っていた。
沢山の古着を車に乗せて、家に帰った。
祖母や母に、こんなにいい服を安く買ったと自慢するのが好きだった。
祖父はほんの少しだけ前よりも痩せたが、まだ太っていた。

それから2年ほど経ち、祖父は前立腺ガンになった。
それでも祖父は私を車で連れ出してくれた。
体調が悪いのにこんなに車で色々な場所へ連れて行ってもらって、迷惑ではないのかと聞くと
「おじいちゃんは、あなたと車ででかけるのが生きがいなのよ」
と祖母が言った。

高校を20歳で卒業し、しばらく経ってから、私は東京で一人暮らしを始めた。
祖父は車で荷物を運んだり、リサイクルショップへ連れて行ってくれた。
たまにちゃくちゃくちゃくへも行ったが、祖父が車から降りてくることはなかった。

その後、祖父は胃ガンになり、胃を全摘出した。
太っていた祖父があまり物を食べなくなり、みるみるうちに痩せてしまった。
車に乗る元気すらなくなった祖父は、そこから車を売り、どこへも行かず家で生活をするようになった。

またそこから引っ越し、仕事や音楽で忙しくなった私は、頻繁に祖父に会いに行くことはなくなった。
入院をすればお見舞いに行ったが、すっかり痩せ、冗談を言わず無口になった祖父と何を話せばいいのかわからなかった。
引っ越した土地の話や、仕事の話、音楽の話を一方的にして、いつも1時間くらいで帰った。

この頃、祖父はガリガリに痩せて体が茶色くなっていた。
なんだかミイラみたいだなと思ったが、恐怖や気持ち悪いという感情はなく、少し可愛くて愛おしいと思った。

2019年10月12日、祖父が初めてライブを見に来てくれた。
ライブが終わってすぐ、祖父の元へ向かった。
「どうだった?」と聞いたら、「よかった。」と小さな声で言った。
私は、本当かよと思った。
思ったより元気で少し安心をしたので、記念撮影をしてすぐに楽屋へ戻った。

そこからまた、仕事やライブが続き、祖父のお見舞いにはしばらく行かなかった。

11月9日、祖父がまた入院したという知らせを受け、久しぶりに病院へ向かった。
そこまでひどい状態ではないが、病院で出されるごはんをあまり食べない為、治りが悪いとのことだった。

「ごはん、あまり食べていないんでしょう」
私が聞くと
「食べてるよ」
と言った。
「食べてないって聞いたよ。私、今日寿司とラーメン食べた。ヤバくない?
また、がってん寿司行こうよ。」
と私が言うと、ウンと頷いた。
「病院、暇じゃない?」
「ひま」
祖父が野菜ジュースを飲んだ。

声はとても小さいが、まだ大丈夫そうだった。
その日もいつも通り自分の近況報告をした。年始にCDを出すからまた届けにくるねと伝え、病院を出た。

2019年11月12日、祖父の容態が悪くなり、部屋を移ったと連絡が来た。
仕事が終わった後、急いで病院へ向かった。

祖父は鼻に酸素の出る管をつけており、両手をミットのようなもので拘束されていた。
酸素の出る管を外そうとしてしまうらしい。
私が来たことを伝えると、目を開けた。

少し話しかけた後、祖父が口を開き、掠れた声で
「俺はオイイア」
と言った。
「おれはおじいさん?」
と祖母が聞いた。
違うと首を振り、もう一度
「オイイア」
と言った。
「おれはお雛様?」
「オイイアア」
「えっ?」
「オイイアア、コイイアア、、」
「ごめんわからない、なんて言っているの?」
何度も声を出し、疲れてしまったのか、祖父は首を振りまた目を瞑った。
「もしかしたら夢を見ているのかもね」
と祖母が言った。

少し経って目を開けた祖父が、
「がってん」
と言った。
「わかったってこと?」
と祖母が聞く。
違うと首を横に振る。
「がってん寿司?」
と私が聞くと、頷いた。
「がってん寿司に行きたいの?」
と聞くと、また頷く。
「行こうね、またみんなで行こうね」
と言った。
もうおかゆすら食べられないのに…。
私は顔を背けて泣いた。

その2日後、11月14日。
祖父が少し元気になったと母から連絡が来た。
マンゴージュースが飲みたいと紙に書き、母に渡したそうだ。
ああ、安心した。
また週末にお見舞いに行こうと思っていたその日の夜、母からまた連絡があった。
祖父の体が、今夜は大丈夫だがそれ以降はわからないというのだ。
仕事を終え、明日の朝一番に病院へ向かおうと思い自宅に戻った。

不安で悲しい気持ちだったが、早く起きなければと思い眠りについた。

ーーブーッ ブーッ
眠りについてしばらく経った後、セットしたアラームが鳴った。
もうそんな時間かとiPhoneを見る。
3時26分、アラームではなく、妹からの着信だった。

病院に泊まっていた祖母が、先生から家族を呼んで欲しいと言われたとの事。
始発で間に合うか?間に合わないか?そんなことをぐるぐる考えていたが、
やはりタクシーで行こうと思い家を出た。

妹に、今から行くと電話をすると、オンフックにしてくれた。
「おじいちゃん、今から行くからね!!」
と伝え、駅へ向かった。

しかし、駅のタクシー乗り場には、一台もタクシーがいなかった。
一番近いタクシー会社に電話をかける。
出ない。
その時、一台のタクシーが向こう側に見えた為、手を上げて追いかけた。
目が合ったにも関わらずタクシーは走りすぎてしまった。

別のタクシー会社に電話をかけるが、出ない。
また別の会社に電話をかけるが、やはり出ない…。
歩いて別の駅のタクシー乗り場へ向かおうかと考えていたところ、向こうからタクシーが来て、私を乗せてくれた。

祖父が危篤の為急いでほしいと伝えた。
運転手の方は本当に良い方で、急いで病院へ連れて行ってくれた。

無事に病院へ着き、祖父の元へ向かった。
病室に着くと、近くに住む家族が集まっていた。
皆に囲まれてた祖父は、目を閉じ、口をポカンと開けていた。
もう話すことはできないが、声は聞こえているだろうということだった。
心拍数が19、17、18と動いている。

「おじいちゃん、来たよ。」
声をかけた。心拍数が20、22と上がる。
もう一度手を握り呼びかけた。
「もしもし、わざわざ来たんだから起きて。
タクシー高かったよ!!
早く起きて、寿司食べに行こう。
おじいちゃん、おじいちゃん。」
心拍数が25、26と上がる。

「おじいちゃん、起きて。
大トロ食べに行くよ。おじいちゃん。
起きて、がってん寿司に行こう。」
心拍数がどんどん上がる。

もしかしたら目を覚ますかもしれない。
自分が死ぬなんて思わせないように、明るく大きな声で何度も呼びかけた。
家族皆で、何度も何度も呼びかけた。

どのくらいの時間が経ったのだろうか。
ものすごく長い時間、声をかけ続けていたように感じた。

ピピピピ ピピピピ ピピピピ
祖父の心拍数が0になった。

「おじいちゃん、おじいちゃん。」
皆で呼びかけるが心拍数は0のまま一向に上がらない。

皆が黙り、俯いた。
機械の音だけが響いていた。

「終わったんだねえ」
と祖母が言い、祖父の頭を撫でた。

ぽかんと開いた口には歯がなく、まるで赤ん坊のようだった。
私が病室に着いてから、恐らく12〜13分後、祖父は息を引き取った。

悲しみを悟られないよう、皆が明るい言葉を口にする。
私もピピピピ ピピピピという音に合わせて踊ったら、妹に叩かれた。

やがて、皆が黙った。
もう本当に終わりで、祖父と話すことはできないのだと思った瞬間、涙が溢れ出た。
周りを見ると皆泣いていた。

少し経ってから医者が来て、祖父の死を告げた。
霊安室に運ぶというので、しばらくしてから病室を離れた。

「はるるが来るのを待っていたのかもしれないね」
と、母が言った。

2019年11月15日、祖父は77歳で息を引き取った。

お通夜と告別式が済み、私たちはまた普段通りの生活を始めた。

ーーーー僕は ついてゆけるだろうか
じいちゃんのいない世界のスピードに。

恐らく、ついていけるのだろう。
でも、すごく悲しいよ。

天国では今まで吸えなかった分、空気を沢山吸って、大好きだったゴルフや釣りをしているのかな。
弟には会えたかな。

私は科学の発展の力を借りて、あと100年近く生きる予定です。
そちらにはしばらく行けないけど、私たちは大丈夫だから、安心して休んでね。

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