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多和田葉子の『旅をする裸の眼 』を読んで

内容紹介:
ヴェトナムの女子高生の「わたし」は、共産主義政権が終わる少し前の東ベルリンに講演をするために訪れたが、知り合った青年に西ドイツ・ボーフムに連れ去られてしまう。サイゴンに戻ろうと乗り込んだ列車でパリに着いてしまい、不法滞在者で住所もなく、10年以上もパリを彷徨する。スクリーンで見る女優カトリーヌ・ドヌーヴの映画が「わたし」の心のよりどころとなる。

感想 
多和田葉子さんの小説を読むのは初めて。
何の予備知識もなく、ただ内容に惹かれて本書を手にとった。

最初の感想は、今まで日本人作家が書いた仏語翻訳本を数え切れないほど読んできたが、本作は日本人が書いた文体や物語とは思えず衝撃を受けた。

どうしても語学に注意が向いてしまうのだが、作家のドイツ語のレベルは相当高いのではないか、もしかすると語彙力の高さは日本語のそれと同等ではないのかという印象を受けた。

次に、多和田さんの表現したかったことについて考察してみる。

主人公の若い女性「わたし」は、共産主義思想を植え付けられ、資本主義を悪いことと捉えていた。そんな「わたし」が、いきなり自由で愛の街パリに放り出される。パスポートも住むところもなく、言葉も通じない。

逃げ込むように入った映画館で「あなた」に出会う。それが、カトリーヌ・ドヌーヴなのだ。
彼女の出演する映画、『ハンガー』、『昼顔』、『インドシナ』や『終電車』など13本を、一章ごとに一本取り上げる。言葉は通じなくても同じ映画を繰り返し観ながら、「わたし」は「あなた」の演じたミリアム、セヴリーヌ、エリアンヌ、マリーらに今の自分を投影していく。

「わたし」は特に、共産主義と資本主義の狭間で、それぞれの選択を余儀なくされた『インドシナ』のエリアンヌとヴェトナム系養女のカミーユに強く感情移入する。本作についての章は、私自身も好きな映画なので引き込まれ、改めてエリアンヌの葛藤や作品の深さに気付かされた。きっと多和田さんも好きな映画なのだろうと感じとれた。

『旅をする裸の目』という題名が表すのは、どこにも属さず、言葉ももたない、浮浪者同然になった流浪する少女の裸の目から見える、映像を言葉にしていくことである。

「わたしにとって一つの大事な問いがあったが、それを言語に訳すのが恐かった。言葉にしてしまうと、答えなければならないし、行動に移さなければならないから」(私訳 43p)

「わたし」は、言葉に意味を見い出さず、「あなた」の置かれた境遇、声、表情や行動を目で何度も追いながら、語りかけ、感情移入し、受動的に一体化して生き延びていく。ドヌーヴだけが「わたし」の生きる支えとなる。

最終章の『ダンサー・イン・ザ・ダーク』に登場する、盲目もアジアン女性は一体誰なのだろうか? 最後にきて訳が分からなくなった読者の私は落ち着いてこう考えた。

「わたし」は、最後に映画の世界に迷い込んでしまったのだろうか。もしかすると初めから虚構の中、つまり映画の中の人物だったのだろうかと考え込むと、ハッとして、私はうつむいていた顔をとっさにあげた。
そして気づいた。こうして読者を迷宮に陥れるのが、多和田さんの作品の特徴なのだろうと。

盲目の女性が言う。
「視力っていうのは裂け目みたいなものなんですよ。その裂け目を通して向こうが見えるんじゃなくて、視力自身が裂け目なんです。だからまさにそこが見えないんです」

私たちは、見えているつもりでも見えていないものがある。それは、言葉が先に見えるものへの意味づけをしてしまうから、特に大人は自分の解釈でものを見てしまいがちだ。だが、少女は、透明な裸の目で、受動的に全てを見ようとする。

私見だが、本作は、多和田さんが初めて異国を旅した時の感覚や異国で暮らし始めた時の、肌で感じる言葉への距離感を描いているのではないかと思えた。言葉が全く通じない時、人は目に見える映像や記号(signe/シーニュ)、相手の表情や態度で意味を理解しようとする。

また、私たちは映画を見る時に、登場人物の言葉だけに耳を傾けるのではなく、映像を目で追いながら、監督が作品で表現したいことのヒントとなるシーニュを自然と探している。

最後に、言語学者ソシュールのシニフィアン(能記)とシニフィエ(所記)、この二つの対である「シーニュ」(記号)を想起させるような、言語学的な作品である印象も受けた。

作家というのは常に言葉と対峙している。多和田さんの作品の特徴は、言葉と向き合うことだろう…
本作は、多和田さんが映像を言葉にした視覚的な、映画を観ているような作品である。
とうとう私は、多和田葉子ワールドに足を踏み入れてしまった!


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