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パティ・スミスの文学と追憶の旅路 ー 『M Train』 を読んで

ヴァカンスシーズン真っ只中にもかかわらず、私は普段と変わらず職場に行き、夏休みを利用してパリに買い物に来る客を相手に仕事をしている。

コロナ禍のせいでずいぶん閉鎖的になってしまった世の中ではあるけど、私までもが旅行や外出を恐れたり、コロナがもたらす未来の変化に不安を抱く必要はない。そう思うと、「もっと自分の心を解放して自由に生きよう!」と、パンク調で(パンクはほとんど聴かないけど)歌い叫びたくなった。

そんな時、本棚に並べられているパティ・スミスの本が目についた。かつてパンクの女王として名を馳せたことくらいしか知らない私は、彼女について調べることにした。

今年74歳の誕生日を迎えたパティ・スミスはスペインで開催されたあるイベントでこう語った。
「私が考えるパンクの定義は『自由』。たんなる反逆ではありません。レッテル貼りや固定観念を拒否し、新しい表現を追究して自分の居場所を作る。それがパンクの精神です。ランボーもモーツァルトも、私にとってはパンクなんです」

これを読んで私は、彼女の伝記『M Train』と『Devotion』を取り憑かれたみたいに立てつづけに読んだ。


『M トレイン』を読んで

パティ・スミスはこの本を「私の存在の地図」と呼んだ。タイトルのMはマインドという意味。18の「駅」を旅する彼女は、読者を彼女が世界中で訪れたカフェや大好きな作家やアーティストが眠る場所へと案内する。夢と現実、過去と現在、死者と生きている人の間を行き来する世界を叙情的な文章で綴られたこの本は、芸術的な視点と感性に満ちたパティ・スミスの回顧録である。

「無から書くのは簡単じゃないよ」と、夢の中でカウボウイに声をかけられる場面で始まる。パティは「無について話す方がずっと簡単ね」と答える。カウボウイは、本書が出版された同じ年に亡くなったサム・シエパードだと言われている。サムとパティは、60年代に戯曲『Cowboy Mouth』を共同制作をし、プライベートでもパートナーだった。本書の献辞に《サムに》とあるため、彼へのオマージュだと考えられる。

旅に出ない時、パティは行きつけのカフェ・イーノの決まった席でいつものブラックコーヒと麩入りのパンとオリーブオイルを注文する。テーブルにはモレスキンのノートとペンが置いてあり、詩や本の執筆をしたり、装丁の写真のように物思いに耽ったりする。
大のコーヒー好きな彼女には世界各地にお気に入りのカフェがある。

パティの文学の旅路は、夫のフレッドと一緒に、ジャン・ジュネがかつて入獄することを憧れたフランス領ギネアのサン・ローラン刑務所の跡地で、石を拾うことから始まる。それからメキシコのフリーダ・カーロ、日本の芥川龍之介、太宰治、小津安二郎、黒澤明、そしてイギリスのシルヴィア・プラスなどのお墓参りをする。また、亡くなった夫のフレッド、弟のトッド、そして盟友だったルー・リードとの思い出を回想する。最後は、ジュネが眠るモロッコのお墓に赴き、サン・ローラン刑務所の跡地で拾った石を供えに行く。

彼女は一人だけ死者でない作家に会いたくなる。それは村上春樹。
『ねじまき鳥のクロニカル』に魅了され、メキシコ旅行でも読みふけり、日本に滞在した時に「世田谷にある村上の井戸を探しに行こうか…」と考えたりもする。だが、「ともかくここにムラカミはいないな、と私は思った。彼はたぶんどこか他所にいて、ラベンダー畑のまんなかで密閉されたカプセルに入ったまま、言葉を耕しているのだろう」と、とどまる。

なんてロマンチックで見事な例えなのだろう、とため息がでた。
パティは若い頃から詩を書いていたせいか描写が美しく、それでいてパンク・ロック歌手らしい心が揺さぶられる言葉が散りばめられている。

また、日本のホテルから芥川龍之介と太宰治に日本酒で献杯する場面はほっこりとした。彼女の人情深さ、作家への敬意と情熱は計り知れない。

彼女のユーモアと悲哀に満ちた回顧録を読みながら、私は幾度となく笑ったり泣きそうになった。愛する人たちを次々と失い、喪失感に打ちのめされそうになっても、彼らの記憶を辿りながら旅をすること、または書くことでまた彼らに"会える"ということを彼女は教えてくれた。

パティにとって、新しい表現を追求して自分の居場所を作ることが自由でいられることだ。読了後、私は彼女がどうして旅に出て、死者のお墓に赴くのか理解ができた気がした。彼女に新しい表現のインスパイアを与え、居場所を作ってくれたアーティストたちに感謝をするためなのだろう。文学や芸術で作られた世界で生きてきて、人情深い彼女ならではの感謝の表現なのだ。

私たちもそれぞれの「M Train」をもっている。
まずはモレスキンをテーブルに置き、カフェでブラックコーヒーを注文しよう。そして旅の計画を立てるのだ。






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