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【ごめん、ずっとこれを一人でやらせて】

LINEの着信音がピコン、と鳴った。一人きりの部屋で、でもそのとき画面越しに友人たちと語り合っていた私は、一人ではなかった。

「ちびが熱出した。39度越え。どうしよう」

”どうしよう”…か。
咄嗟に湧いてきた感情は、苛立ちだった。同じように「どうしよう」と電話やメールをした私に、あなたはいつだって「仕事だから、あとよろしく」と背を向けたじゃないか。そう思い、苦々しい思いで画面を閉じた。

友人たちに息子が発熱したことを告げ、私の楽しいひと時は幕引きとなった。

この日の私は、月に一度あるかないかの完全オフの日だった。育児も家事も創作も仕事も、どこかで線引きをしないといつまでだって続いてしまう。「今日はここまでで終わり」という線を自分で引かないと、特にフリーランスで活動している場合などは際限がない。

息子のこと。ミニバスの会計計算。必要な備品の発注。自宅の家事。定期購読マガジンの執筆。進めている企画の原稿書き。クラウドワークスの納品。

雑多なあれこれを前日までに済ませ、翌日はしっかり一日休もう、と心に決めていた。けれど、その願望は呆気なく半日で潰えた。


LINEの返信を打っている途中で、急かすように電話が鳴った。

「もしもし、熱があるから病院が予約制らしくて、それが下校時間に重なるんだけど、あいつ(長男)鍵持って出てなくて。どうしよう」

旦那は慌てると早口になる。そして、冷静になればわかることが途端に見えなくなる。仕事での彼は同僚の方から聞くぶんに、常に冷静沈着らしい。所謂”仕事のできるタイプ”だ。しかし子どものこととなると、簡単に平常心を失う。

「そういうときは、学校に鍵を届けてから病院に向かえばいいんだよ。でも、熱高いし心配だからそっち戻るよ。必要なものある?水分とか摂れてる?」

「水分は摂れてるけど、さっき吐いて。何も食べられないみたいで、どうしよう」

何回目かの”どうしよう”を聞きながら、「すぐ行くから」と言い含めて電話を切った。当初感じた苛立ちは、氷の解けたカルピスみたいに薄れていた。我が子の発熱に慌てふためいてオロオロする姿を、私はよく知っていた。
11年前の夏ごろ、彼のように動転しながら「どうしよう、どうしよう」と泣きそうになって赤子を抱いていたのは、紛れもない私自身だった。


長男が初めて発熱したのは、0歳の夏だった。冬生まれの彼は生後半年を過ぎた頃に、突然40度越えの熱を出した。初めての子ども。初めての高熱。頼れる人もなく、旦那は仕事で、家には私と不機嫌にぐずり続ける長男だけがぽつんと取り残されていた。

慌てて近所の小児科に電話をして、身支度を整え長男を車に乗せる。ぐずってチャイルドシートに乗ることを嫌がり、背中を反り返らせて暴れる息子。元々癇の強い子で、身体を固定されることを極端に嫌がるところがあった。普段ならそんな彼に根気強く声をかけながら対応できていた私は、この日思わず長男に対して声を荒げた。

「暴れないでよ!早く病院行かなきゃいけないんだから!!」

熱があって苦しいのは彼で、当然機嫌だって良いわけがなくて。でも心配のあまりすっかり平常心を失っていた私は、そんな彼をきつく怒り、無理矢理チャイルドシートに乗せて車を発車させた。心臓がどくどくと嫌な音を立てていた。

病院で受付を済ませ、旦那にメールをした。当時まだLINEは主流ではなく、既読の付かないメールは彼が読んだかどうかも確認できず、待合室でじっと長男を抱きながらマナーモードの携帯が震えるのを息を殺して待っていた。

診察を済ませ、医師になだめられ、薬を処方される。それらすべてを終えて再びぐずる長男をどうにか車に乗せて家に着いたところで、旦那からの返信が届いた。

「仕事終わったらすぐ帰るから」

忙しい合間をぬって返信してくれただろうことは、十分わかっていた。句点すらないということは、もしかしたらトイレの中から返信をくれたのかもしれない。そう思いながらも、やはり心細さは拭えなかった。旦那の仕事は宿直勤務で、帰ってくるのは早くても翌日の昼過ぎ。場合によっては夕方になることもあった。それまで高熱の息子と二人きり。どこの家庭でもそんなものだと頭では理解していた。でも感情が追い付かなかった。いつまでも嫌な動悸と共に、どくどくと苦しく脈打つこめかみがぎしりと痛んだ。


”どうしよう”
そう言える相手が、隣にいてほしかった。ただ、それだけだった。

”大丈夫だよね”
そう確認し合える誰かが居てくれる状態で、不安な夜を明かしたかった。


今年の3月、旦那との別居を始めてすぐ、ちびが怪我をした。そのときも慌てふためいた声で、彼から電話がかかってきた。

「ちびが怪我した。”どうしよう”


我が子が病気や怪我をしたとき、親は平常心であることを当たり前に求められる。そのほうが正しい対処ができるし、慌てていると視野も狭まる。でもきっと、そんなのみんなわかっている。わかっていても慌ててしまう。そういうものなのだと思う。初めての子のときや、初めての状況のときなどは、特に。

核家族が主流の今、子どもの急変時に母親、もしくは父親が一人で対処しなければならない場面は幾らでもある。病院に連れて行くだけでも一苦労で、ときにそれは半日がかりだったりもする。そこから買い物をして帰宅して、ぐずる我が子をおぶったりなだめたりしながらご飯を作る。体調の悪い子どもは、普段の2倍から3倍は夜泣きをする。よって付き添う親は、ほとんど眠れぬまま夜を明かす。朝が来て、我が子が元気になっている場合はまだ良い。ときにそれは数日から1週間ほど続く場合もある。


子育てや家事は、「誰もがやっていること」として世間から評価されることがほとんどない。弱音を吐けば「好きで生んだんでしょ」と言われ、子どもに何かが起きればそれは大抵母親の責任にされる。私自身、何度言われたかわからない。

”子どもの怪我や風邪は、母親の管理不足”

今の私なら、これを言われても鼻で笑い飛ばせる。言うのは簡単だよね、と右から左へ流せる。しかし初めての育児に右往左往しているとき、こういう心ない重圧はわかりやすく親の心身を削ってしまう。


パートナーであれ、友人であれ、祖父母であれ、親戚であれ、通りすがりの誰かであれ、親が余裕をなくしているときにかける言葉は、温かいものであってほしいと思う。”どうしよう”と弱音を吐ける余地を残してあげることが、平常心を失った親にとって何よりも必要なのではないだろうか。


ちびは病院で薬をもらい、今は熱も少し下がって元気にうどんを食べられるほどに回復した。オロオロしていた旦那は、元気になったちびを見てようやくいつもの彼らしさを取り戻した。

別居を始めて4ヵ月。共に暮らしていた頃には聞けなかった言葉が、彼の口からこぼれ出た。

「ありがとう。ごめん、ずっとこれを一人でやらせて」


今更だ、と思わなくもない。それでもやはり、聞けて良かった。

「うん」

それだけを返し、すうすうと寝息を立てるちびに目を向ける。それにつられて息子を眺める彼の横顔は、やっぱりどこまでも”お父さん”だった。


私たちはきっととても不器用で、あまりにもコミュニケーションが足りなかった。伝えても伝わらないと諦めてしまった私と、受け止めることが絶望的に下手くそだった彼。私たちが再び人生のパートナーとして手を取り合うことはおそらくないけれど、子育てのパートナーはやはり彼しかいないと改めて感じた。


子育てに於いていつだって冷静沈着でいられる人なんて、きっといない。子どもを愛しているからこそ、周りが見えなくなるほど取り乱してしまうことが誰しもある。そういうとき、”どうしよう”と言える相手。そういう人が一人でもいるかどうかで、子育てのハードルは段違いに変わってくる。

”ちゃんと”できることより、”困った”サインを出せること。それを受け止めてくれる誰かが傍にいること。
それが子育てをする上で、また、子育てをする誰かの傍にいるあなたにとって、何よりも大切なことなのかもしれない。





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