ハンス・ケルゼン『民主主義の本質と価値』(長尾龍一 他訳、岩波文庫、2015年)

■概評

民主主義及び議会主義を現実的な形で擁護した本。21世紀の民主主義にも適用できる箇所も多い。”法哲学者”としてのケルゼンの影は薄い。


■民主主義の本質とその価値

1、自由

〇序論

 民主主義の理念は、その第一は他律の苦痛に対する抗議、つまり自由であり、もう一つは英雄否定的な平等の理念であり、そしてこの二つの原理の総合である。

 しかし自由は社会的なものを否定するが、そのため社会と適合するために、意味の変遷を経過しなければならない。つまり自由は社会的拘束の否定から、社会的拘束の一形態へと変化するのである。

 そのようにしてできた自由の形態である民主制とそれに対立する専制支配とが相まって、あらゆる可能な社会形態の表現となる。


〇国家創設の契約とその存続

 危険からの解放のために人は他者と全員一致の国家創設の結合契約を結ぶ。これは自分自身に服従し、以前と同様に自由であることが前提となる。

 だがそれだけでなく契約以降につくられた秩序の存続にも自由の要請から全員一致の継続を要求しているはずである。社会秩序は服従者の意志から独立した拘束力をもつものであり、全会一致のそれでなければ時に自由の理念と矛盾するからである。

 もし民主制が自由の理念に従って、国家の創設の契約は全員一致でも、その存続は多数決によって決せられるとすれば、この民主制は当初の理念から離れ、それへの単なる近似となる。

 だがそもそも我々は既存の社会秩序の中に生まれるものであり、国家創設の契約に関わらない。最初から他者の意志として向かってくる。なれば問題となるのはただ、その秩序の存続および変更のみである。

 この観点からすれば単純多数決の原理が相対的に自由の理念に近いものである。


〇単純多数決原理

 多数決原理は自由の理念であって平等の理念ではない。決して人格が計算されたり積算されたりするものではない。

 合理的に多数決原理を導く道は「可能な限り多数の者が自由であるべきだ」という前提からである。


〇自由観念の意味変遷

 民主制においても個人の自由の意志と国家秩序との相克が生じるのは不可避である。そこで個人の政治意識において、自己の同等者に支配されたくないという感情故に、支配の主体は、人ではなく、国家人格という匿名のものにすり替えられる。誰々という人ではなく国家という概念が支配している意識に変わるのである。

 この意識によって個人は国民へと変わる。ここに個人の自由は国民の主権に取って代わられる。つまり、個人が国民となる以上、原理上要求されているのは自由な国家である。

 ジェノア共和国の牢獄の鎖に「自由」という文字が刻まれていたのは、単なるパラドックスではなく、民主主義の真相の表現である。


2、国民


〇国民の概念

 自由の理念の変遷によって、我々は民主主義の理念から現実へと導かれる。

 この理念と現実は、どちらを重視するかで論争するが、その対立は特に国民の概念において現れる。

 民主主義とは団体意志(社会秩序)の創造を、国民が行う形態であり、統治者と被治者、支配の主体と客体に同一性がある。ここにおいて、国民とは同一性を生み出すために統一体である必要がある。だが多様な民族や主張がある現実において、統一体とは倫理的要請に過ぎない。つまり、規範的意味においてである。規範服従者たちの行動を規律の対象とする国家法秩序の統一性に他ならないのである。

 そして諸個人の多様な行為を国家法秩序によって統一化したに過ぎないものを「民衆の総体」としての「国民」であるとするのは擬制である。


〇支配の主体

 統一体が規範によるものであるとすれば、国民とは支配の対象である。

 一方で、支配の主体(主権の主体)は国家秩序創造に参加するものだけとなる。しかしその参加者は支配されるものの一部でしかない。奴隷や女性(当時女性参政権はない)などが参加していない。

 更に現実的に考察すれば、どうしても判断力を欠く大衆と団体意志形成手続きに方向を示す少数派に区別されるべきである。そのときにどうしても直面するのは政党の影響力である。


〇政党

 孤立した個人は国家意志形成に対して現実的には無力である。そのため団体に結集しなければならない。こうして個人と国家の間に政党が介在する。

 そして現実において、利害の対立は不可避であり、団体意志が一方の利益だけを実現すべきでないならば、それは妥協以外ありえない。国民が複数の政党に分かれることの意味は、そのような妥協をもたらす条件をつくりだし、その可能性をつくりだすことである。

 民主政治は複数政党国家の政治であり、団体意志は諸政党の意志の合算なのである。


〇議会制

 以上、民主主義の観念を現実に適合させるために、多数決原理で縮小し、国民という概念を有権者の総体、更にはその現実の行使者にまで縮小してきたが、まだその縮小は終わっていない。

 現代の国家は巨大であり、直接民主制は不可能である。現実的には間接民主制の形態をとる。だが、ここでは団体意志は選挙された多数によってのみ形成される。すなわち自由は投票権に弱められている。

 このため民主主義の理念の最も重要な制約要素として議会制を理解する必要がある。


3、議会


〇自由の理念と議会主義

 議会主義の原理の中に自由の理念を減殺する二つの要素がある。一つは多数決原理だが、もうひとつは意志形成の間接性である。つまり議会を通して団体意志が形成される。これは自由主義が分業原理と結びつくことである。

 それゆえ議会制は、自由という民主制の要請と、社会技術の進歩の条件をなす分業との妥協である。

 議会は国民の代表として国民意志を形成するが、それは擬制に過ぎない、つまりはその国家意志は国民意志ではないという反論がしばしばなされる。

 しかしこの反論は議会制を国民主権原理によって正当化しようとして、議会制の本質を完全に自由の観念から規定できる限りにおいてである。議会制は分業原理を混入したものであり、国民意志の完全な形成はなし得ることがないことによるものである。


〇国家意志形成過程

 技術的に発達した社会団体の中で、政府のほかに立法のための合議的機関が形成されるのは、社会発展の必然性の産物といえる。なぜならそれは国家意志形成過程の性質だからである。

 国家意志は団体秩序を擬人的に表現したものに過ぎない。秩序は個々人の行為の意味で、それは規範の複合体である。その規範の複合体が団体に属する人々を規律し、そして団体そのものを形成する。

 国家意志の形成とは、国家秩序の創造過程に他ならない。

 そしてこの国家意志形成過程の性質は、規範の設定を経て、それから具体的な規範への移行である。この一般規範を創造するのは単独機関よりも合議機関である傾向がある。

それ故、議会を排除する試みは失敗する。結局排除する試みが行き着くのは議会制改革である。


4、議会制改革


議会制改革は民主的要素の強化という方向が考えられる。

 まず議会制は国民を疎遠にしているという批判がある。

これに対し、国民投票制の導入が必要といえる。次に法案の国民発案制度を設ける必要がある。そして党議拘束を強化し選挙民による議員の拘束を行う。

 また廃止または縮小すべきは免責特権である。これがある故に汚職や暴言を行う議員が絶えず、国民が疎遠となる所以である。そして議席の喪失に関して、それを決めるのは中立組織の司法だが、その発案は離席によって不利益を受ける政党がよいだろう。

 
 そして議会は専門的議論がなされないという批判もまた分業化論からなされる。

 この批判は分業理論を促進し、全国民ではなく職能別に分かれた国民が選挙が行い専門家を選出する専門議会の設立を唱える。

 ただもし全国民を代表とする普遍的議会と、職能別の国民を代表とする専門議会の両院で国家意志を創設するという思想があれば、これは不可解なものである。政治的な問題と経済的な問題等は切っても切り離せない関係で、両院が別の原則で意志を形成するとしても両院の一致は偶然的なものになるだろう。


5、職能議会


 職能議会はこれを実現しようとすると解決不可能な問題に直面する。

 第一に職能議会は基本的に利害の共通性に基づいて組織される。しかし各個人の関心はその職の内容のみではない。誰もが自分の関心を超えた全体秩序を求めるが、こうしたことを職能別議会によって決定し得るのか。

 さらに完全なる利害共通性のために、組織は極限まで細分化する。そのとき職能組織別で利害対立が発生する。その対立を職能議会は自前で解決することができない。

 第二に各職能別議会の重要度を誰が定めるか。またいかにして議会で国家意志を形成するか。多数決を採るとして、誰が「多数決にすべき」というか。そのような議会であるならば、幅広い領域に関心をもつ議員を選出する方が正しいのではないか。


6、多数決原理


〇少数派と妥協

 多数決は概念上、少数派が存在することを前提としている。そこから多数派による少数派保護の可能性が働く。自由権などの基本権の役割は少数派保護である。

 また多数決原理のイデオロギーと現実を分ける必要がある。イデオロギーは確かに団体意志をその被治者と最大限一致することであるが、現実は少数派が多数派を支配することがある。彼らが多数決原理に適応しているということである。

多数決原理は賛成派と反対派という対立方向の二集団に分類される。そして多数決原理 によって形成された団体意志は両集団の相互的影響による合成なのである。こうしたことは議会制に最も適応する。なぜなら議会制手続きは論争による結果、妥協をもたらすことを目標とするものだからである。

 一部の論者は議会制による議論の総合はより高次の真理や絶対真理にたどり着くためにすると主張するが、そうでなくここでの総合とは妥協に他ならない。


〇選挙制度

 「議会はいかなる選挙制度を置くべきか」「多数代表制と比例代表制のどちらがよいか」という問いがある。

 比例代表制は各政党をその投票数に応じて分配することから、その選挙主体を全有権者でなく部分有権者集合にするものである。この部分有権者集合は相互に対立するものでなく並存する。そして究極的にはたった一人の投票による代表者、つまりは直接民主制にもつながり得る。これにより自由の原理が比例代表制に見いだされる。つまり自分が国家意志形成に代表者を送るとすれば自分の意志に反しないものを送ることができる。

 こうして比例代表制は民主主義と接合する。他方、この理念を現実化するとすれば議会制となる。なぜならばすべての政治集団は実際上の利害状況を反映し、その勢力に比例して議席を持つことになる。それにより少数派が最も影響力を及ぼす選挙制度となる。

 そして単一集団の利害が国家意志となるべきでないならば、あらゆる集団の利害が自己主張し、競争する保障が必要となる。そして結果として妥協が生まれる。まさしくこの保障こそ比例代表制を基礎とする議会手続のもたらすものである。


〇マルクス主義と多数決原理

 多数決原理を現実に適応させるには限界があり、折り合いをつける必要がある。

 一方でマルクス主義は階級対立を念頭に折り合いは不可能であると考え、多数決原理は適用不可能であるとする。

 マルクス主義者のいうように「重要なのは現実の力関係である」とすれば二大階級による二大政党制が真の表現ではないか。対立を血生臭い暴力で解決するよりも平和的・漸進的に解決できる方法があるとすれば、それは議会制民主主義である。そのイデオロギーは社会的に到達できない自由であるが、その現実は平和である。


7、行政

 団体意志ないし社会秩序は少なくとも一般規範と個別行為の二段階を展開する。

 一般規範創造としての立法機能は、自由な意志形成であるが、個別行為としての執行機能は、拘束された意志形成となる。執行はその本性上、合”法律”性の観念の支配下にある。しかし執行の合”法”性(条例や団体規則)は民主主義と矛盾しうる。

 執行は議会に対しての責任という点で、合議制では責任が弱まるため、専制的な内閣制度の方が適当である。そして中級執行機関や下級執行機関に議会があり、それぞれで規則を制定すると、最上位の規則(法律)と矛盾しかねない。そのため執行において、民主主義は専制的組織の方が自治体よりも維持されうるのである。

 そしてまた上記の事から官僚制の導入が必然であると帰結される。

 執行が民主主義化すれば、そこでのルールと立法のルールと相反する場合があり、両者の弱体化が見られてしまう。そのような状態でなく、可能な限り法律違反から行政を遠ざけたいならば、最高機関による規則、法律の範囲によってのみ限定し、その自由裁量の拡大が必要である。また中級組織や下級組織は上級執行組織に専制的な支配を受ける必要がある。

 そして執行機能が拡大するにつれて官僚化が進行するのである。


8、統治者の選択

〇権力分立

 我々は民主主義のイデオロギーの法則とその意味を、現実の法則とその意味として受け取るわけにはいかない。そのため現実の法則とその意味を探求し、社会的事象の客観的意味と主観的意味を分ける必要がある。

 民主主義の理念は統治者の不存在である。誰かが上位の存在となって政治を行うわけではない。しかしこの理念は現実には不可能である。現実では「いかに支配意志が形成されるか」「統治者を選択するか」が問題となる。支配意志とは、立法のことである。国民がこの立法機関つまり議会の創造にのみ参加できることから、統治者は法律の執行にその役割を制限される。こうして立法機関と行政機関の分化が生じる。

 「権力分立は民主主義的原理なのか、そうでないのか」という問題がある。これにはイデオロギーと現実の相違故に一義的に答えられない。

 イデオロギーの見地からすれば、権力分立は「国民は国民自身によってのみ支配される」という民主主義の思想に適合しない。これは立憲君主制の、一極的な権力の抑制という思想のイデオロギーである。

 とはいえ、権力分立は民主主義を推進するために有効である。理由は一つ目に権力集中を阻止できるため、もう一つは政府活動を法律執行に限定できるからである。


〇統治者の創造

 複数の統治者を創造することが現代民主主義の中心的問題である。民主主義のイデオロギーは統治者の不在であるが、現実は統治者が多数であることである。そこでは被治者の中から複数の統治者を選び出すという特殊な、そして現代民主主義の本質的な方法が行われる。つまり選挙である。

 選挙は、イデオロギー的には被治者から統治者への意志の委譲である。しかし現実には当然別人格であるから不可能である。そのため現実的には選挙の本質は機関創造の一方法である。この方法は以下の二点によって他の方法(専制による任命等)と区別される。一つは単独行為でなく合同行為であること、もう一つは選挙によって創造された機関が、その選挙を行った人たちの上位にくることである。

 そして更に際立って特質がある。それは統治者が被治者によって選ばれるだけでなく、被治者の中から選ばれるということである。自頭制と呼ぶべき制度である。それにより、現実の民主主義においては、公開性、被治者への責任、統治者の交代、公開の競争による選出という特徴をもつ。これは専制制では機密性、無答責、永続的支配、神秘的な最善者の任命といった特徴と対比的である。


9、形式的民主主義と社会的民主主義


 マルクス主義において、多数決原理を基礎とする民主主義の形式的・ブルジョワ的民主主義と、社会的・プロレタリア的民主主義は対立する。後者は実質的な平等を保障する社会秩序である。

 だが民主主義の理念を規定するのは平等の価値ではなく、自由の価値にある。

 そして民主主義というのは社会秩序の方法にほかならず、その秩序の内容に意味をもたせることではないのだ。

 そもそもマルクス主義者は多数を占める労働者が賛同することで、社会民主主義が実現すると信じているが、大多数の労働者が経済の平等や国有化などに関心をもっていないので現実にならないのである。


10、民主主義と世界観


 民主主義は形式に過ぎない。ところが社会問題で重要なのは形式ではなく「どのような規範を定めるべきか」という内容である。

 もし「絶対真理の洞察は可能である」という前提にたてば、絶対善の権威に服することになる。これは最善者による専制政治である。

 一方「本当に絶対真理の洞察は可能であるか」という考えは批判的・実証的な世界観であり、民主主義的態度と結びついている。絶対真理の認識は不可能であると考える人間は自分の考えの可謬性を認め、他人の考えの正しさの可能性を認める。このような相対主義こそ民主主義の前提の世界観である。

■民主主義の擁護(1932年)

〇Ⅰ、民主主義の現状


 世界大戦が終結し、ワイマール憲法が制定された。しかし十年経った現在この憲法は冷淡に扱われるようになった。今や民主主義の理念は色褪せてしまった。

 そして右翼と左翼の両面からの独裁思想により民主主義は糾弾されている。

 「合理主義から非合理主義へ」が現在の標語である。

 しかしこのような現状においても左右の不当な非難に対し、民主主義を擁護すべきである。


〇Ⅱ、社会主義による批判


 社会主義では「現在の民主主義は形式的なもので実質的な平等を生み出す社会的民主主義ではない」という批判がなされる。そこでは形式的民主主義はプロレタリア民主主義によって力でもって変わらなければならないと主張する。

 彼らがこのように主張するのはそのように考えるプロレタリアが多数になるから、と思い込んでいたからである。

 しかし現実はそれは多数になっていない。

 なぜならまず彼らは中間層としてのプロレタリアを軽視していたこと、そしてプロレタリア化した元ブロジョワジーは階級闘争に自尊心を求めず、民族社会主義(ナチズム)にすがりついたからである。

 したがって、現在の民主主義が彼らの要望を叶えられないのでなく、彼ら自身の認識の甘さによって叶えられないといえる。


〇Ⅲ、右翼による批判


 主要な反論として、まず「民主主義は腐敗の温床だ」というものがある。しかしこれは民主主義は公開性の原則を特徴と持つ故に腐敗が明るみになりやすいだけで、専制支配においては隠蔽されるのである。

 次に「最善者によって統治されるべき」という意見がある。しかし反民主主義者は何が最善で、最善者をいかに生み出すかに何の解答を出していない。民主主義では公然のもと選挙によって選出されるが、専制支配においては合理的方法でなく、社会的奇跡への信仰が支配する。

 またこの意見から「多数決でなく専門家に委ねるべきである」というものがある。しかし一義的に重要なのは社会的目的を決定することであり、専門家の出番はその目的が決定されて手段の問題になってからである。そもそも専門家ですら頻繁に対立は発生するものである。


〇Ⅳ、民主主義者による民主主義批判


 民主主義は、反民主主義すらも容認しなければならないというパラドックスをもつ。

 「もし反民主主義者が多数となれば、民主主義はそれに反抗すべきか」という問いに対してこれはもはや問いの設定自体があり得ない。多数者の意志に抗する民主主義はもはや民主主義ではないからである。民衆の支配である民主主義が民衆の敵であるはずがない。

 だが、このような不吉な矛盾を抱えていても、それでも民主主義への信頼を失ってならない。「自由の理念は破壊不可能なものであり、それは深く沈めば沈むほど、やがて一層の強い情熱をもって再生するであろう」。

■感想


 本文献は法実証主義者のケルゼンに書かれたもので、法実証主義らしく現実を重視したものとなっている。

 内容を簡単にまとめると、自由の理念に従い、人間は社会契約によって社会を形成する。そこにおいての民主主義とは全会一致の直接民主制である。ここでの社会契約とは国家の創造とその存続の法の形成である。だが、これは民主主義のイデオロギー的な部分で、全会一致は現実には不可能である。したがって対立する現実との止揚により、多数決原理が登場する。これは可能な限り多くの人間が自由となるための原理である。そしてまた、直接民主制も現実的に難しいことから分業原理に従い間接民主制、つまり議会制が設けられる。

 そして議会においては多数派と少数派による”妥協”によって法案が作成される。これにより単純な多数決による専制から少数派が守られる。

 この議会の代表は選挙によって選ばれる。民主制は統治者と被治者が同一のものであるが、現実にはそれは同一視できない。そのため統治者の不在から、統治者の選定が公開されていてかつ被治者の中から選び出す自頭制がとられる。

 こうした民主主義の理念は真理の相対主義と結びつく。つまり人間の認識に関して常に可謬性を認める。そうすることで多様な意見が醸成され競争され、妥協が生み出されるのである。

 以上で見たように、徹底的に理念と現実との相克がここでは描かれている。

 18世紀後半には民主主義への信頼があった。だが立憲国家同士による世界大戦を経験した後、戦後ドイツにおいて社会主義とナチズムの左右の勃興に挟まれた時代において、もはや理念だけでの民主主義は擁護できない。そこで現実に適応させることでその理念を最大限守る制度としての多数決原理と議会制を導き出した。そしてこの導き出された二つの特徴は当時(および現代)の政治の(多少の改革案はあれど)根本にあるものを擁護する内容となっている。

 訳者解説にもあるようにこの文献では「自由の理念」は普遍的な価値であるかのように描かれる。これは法実証主義というより自然法論的発想に近い。ケルゼンは法哲学でなく政治思想において自然法論者であったか、という問題がある。

 ケルゼンは形而上学的な世界観においては真理の相対主義または不可知論者である。真理の相対主義者は真理という”中身”は議論せず、その認識のやり方への議論を行う。特に相対主義者は真理の整合説という立場をとる。これは人々の各信念を整理し、より無矛盾的であることを比較的に真理に近い、あるいはマシとするものである。


 これは政治においてみると、絶対善の中身は議論できないが、その認識への形式を置くことができる。それが民主主義および議会制である。そこでは現実的な数の議員が公開された議論を行い、多数派と少数派による妥協、つまりは”整合”が行われる。それによって全体としてマシな法案が創造される。

そして真理の相対主義では各信念は可謬性をもつ。言い換えればどの信念も支配的になれない。それ故に各信念には自由さがある。民主主義が真理の相対主義のアナロジーであるならば、こうしたことから自由の理念が導出されるといえる。これがケルゼンの直観的な自由の理念の解釈だろうか。

 現実主義の立場から民主主義の現状を擁護したためか、民主主義には普遍的価値があるといった内容ではなく、そうした考えを求める人にとっては少々物足りないだろう。そして本文献は岩波文庫から出版されているが、同年に反議会制ととれるカール・シュミット『現代議会主義の精神史的状況』が出版されている。合わせて読んでおきたい。

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カール・シュミット『現代議会主義の精神史的状況』(樋口陽一訳、岩波文庫、2015年)