『「一見、いい人」が一番ヤバイ』感想

■概評


「一見いい人、だがその中身は悪人」がヤバイんじゃない。
「いい人」"だからこそ"、ヤバい。

■要約


「いい人」なのに、この人と接すると心がざわつく・・・、そういう相手
それが「一見、いい人」である。

「一見、いい人」とは例えば、明るい人気者だったり、部下を信頼してくれる上司だったり、情熱的なコーチだったりを指す。

彼らは多くの場合、「悪意」をもっていない。善意だったり彼らなりの信念・理由をもって周りと接する。だから目に見えた欠点はない。
そしてそういう「いい人」だから、周りの人からは悪人に映らない。むしろ好感のもてる人に映る。

なのに、そういう人と接するとどこか心が穏やかでない。
いやむしろ、そういう人だから、心が荒む。

悪意がなく、欠点が見えないからこそ、その人を責めにくい。
周りも「いい人」と思っているから、問題点を共有できない。

結局、「この人と接していて苦しいのは、自分が悪いんだ・・・(努力不足、自責、妬み僻み)」と思い込み、最後は鬱に至る。

これが「一見、いい人が一番ヤバイ」理由である。

こうした人と接していると、"低温やけど"が進行する。

「一見いい人」は目立ってひどい人でない。むしろそういう人ならば事前に対策できる。だが一見いい人は接していると気づかない内にじわじわと心のダメージを蓄積させていく。
この状態は「低温やけど」と似ている。

湯たんぽやカイロなどを当てていると「あったか~い」と心地よく思える。だが、平温以上の熱は知らぬ間に皮膚の奥にまで少しずつダメージを与えていく。
そして通常のやけどより、治りにくいやけどが生じてしまう。

「一見、いい人」と接していると、どこか居心地のよさや熱意を心の奥で感じるが、それが気付かない間に心のやけどにつながっていくのだ。

■感想

ネットで鬱になった人の話を調べたら、それなりに事例が引っかかる。
Yahoo知恵袋なり、ニュース記事なり結構出てくるはずだ。

だがそこで書かれる話では相手がパワハラ上司だったり、会社がブラックであることが多い。

「セクハラを受けた」
「暴言を吐かれた」
「数百時間働かされた」
…etc.

悪意をもった相手が、善良な人を苦しめる。

周りの人(書き込みやコメント、リプライ)はもちろん同情してくれる。

「無視しましょう」
「訴えましょう」
「そんなひどい会社辞めればいいんです」
「縁をとっとと切りましょう」
などとアドバイスを送ってくれるはずだ。

鬱に追い込んだブラックな会社、パワハラ上司……。
これらを排除すれば鬱病という社会問題はなくなる、そう思わせてくれる。

だが、人を本当に苦しめるのはそのような悪そのものな存在ではない。むしろ一定の善意、あるいは前向きな思考によるものではないか。

相手が善意で接しようとすると、こちらもそれ相応で返そうと人は思う(返報性の原理)。しかし相手のそれが大きければ大きいほど、自分もそれに応えようと必死になる。自分の能力を超えたことに気付かないほどに。

相手が礼を尽くすほど、期待をかけるほど、努力するほど、それがプレッシャーになる。自分を苦しめていく。

「相手が応援してくれるのが辛い」
「相手が優秀過ぎて辛い」
「相手の期待が辛い」

そして、そうした状況においては周りに相談することすら難しい。

相手は善意なのだから、「自分が被害者である」かのように相談することはできないのだ。

相談にのっている方も、そんな話をされても「それは妬みじゃないか。僻みじゃないか」と思ってしまう。
あるいはそう思われるのが嫌で相談ができない。

このように「一見、いい人」による鬱はこうしてどんどん深化していく

感想の最初に、
「ネットで鬱になった人の話を調べたら、そこで書かれる話では相手がパワハラ上司だったり、会社がブラックであることが多い」と書いたが、
これも「一見、いい人」による被害者が周りに相談できないこと、そして共感されにくいこと関わっている。

つまり、前面に出てこないから、そうした共感されやすい鬱が上位にヒットするのだ。

こうした鬱の話が世に知られるほど、「鬱病という社会問題を無くすことができる」と考える人もいるだろうが、
むしろ、共感されやすい鬱こそ「真の鬱」であるかのように捉えられ、その結果、一見いい人が原因となる共感されにくい鬱どんどん閉じこもってしまう危険性がある


そもそも、パワハラ上司やブラック会社は度々問題となるが、部下・従業員を故意で苦しめている人はどれ程存在するのだろうか。

多くの場合、彼らは「会社のため」「お客様のため」「仕事のため」という理念をかざしているのでないか。つまり、彼らは純粋悪でなく、むしろ他者(会社、客)を思った善意ある行動なのではないか(もちろんそこに過失の程度はある)。

報道やSNSで一面だけ切り取られたような労働問題が出まわり、"悪"を仕立て上げて、それをバッシングしていくことで、問題は解決され、心も満たさたされる(炎上ポルノ)。

しかしそのとき、問題の根本を見ていないように感じる。

物語化された社会問題、そしてその悪役キャラとして登場する上司や会社。
これらが鬱の原因であるように描いても、それはフィクションに過ぎないのであれば、鬱という社会問題の解決はほど遠くなるのだ。


純粋悪かのような上司や会社が存在し、それに苦しめられる人も世にはいるかもしれない。

だが、『「一見、いい人」が一番ヤバい』の作者によると、長く精神科医として診療を続け、様々な人を見てきたが、「100パーセント悪意で行動しているという人とは会ったことがない」(P.139)という。

それぞれ、人生の経験のうちに培ったそれなりの理由があって行動している。

このため、ネットで転がる「共感されやすい鬱」の事例も、見方を変えればその原因となったパワハラ上司などにも三分の理を見て取れること、何ならそちらの方が正しいように感じられる場合もあるだろう。


昨今の炎上によるブラック会社・パワハラ上司叩きは鬱という社会問題を解決できない。
人間それぞれの理由とそれによって問題が起きるということそれは人間の善意こそが引き起こし得るものであること
それを理解する必要があるのではないか。