母との会話。
あぁ私、やっと自立出来たのかな、、
「お母さん、あのね。。」
ずっと言えなかった、将来についての気持ちの話をしてみた。
返ってきたのは、お母さんの私に対しての決めつけのコミュニケーション。
そして、お母さん自身の癒えてない傷からのアドバイス。
今までだったら、嫌だなと思っていたものたち。
けど、今回は、ただただ受け止めた。
反論もせず、自分の意見も言わず、ただ、
「そっかぁ。」
って、母の話が終わるまで。
途中、私が大切にしてるもの全然分かってないんだなと思って、悲しくて悲しくて心の中でワンワン泣いた。
『あぁ、私のこと、なんも分かってくれてないのね。』
母のいう言葉で私の心が動くってことは、そこに癒えてない私自身の傷があるってこと。
だから、傷を教えてくれてありがとうって気持ちで、理屈なんて抜いて、心の中で、心のままに、ワンワン泣いた。
自分の気持ちにただ寄り添ってあげたら、今度は、お母さんの気持ちが入ってきた。
例え決めつけのコミュニケーションだったとしても、その決めつけが行われるまでにお母さんなりに私のことをたくさん考察して、たくさん葛藤したこと。
お母さん自身の癒えてない傷の周りにある、淡い後悔や悲しみ、痛み。
けどそれらを乗り越えて私に何かを伝えようとしていること。
例え決めつけのコミュニケーションで、そこはねって私が説明したところで受け入れてくれなくても。会話の中で分かろうとはしてくれなくても、日々生きる上では、私のことを分かろうとしていること。
例えそれが、"私"という鏡を使って自分と向き合っているだけだとしても。
いや、だからこそかな。
お母さんがお母さん自身を愛してることが分かって嬉しかった。
私はもう、お母さんのアドバイスには従わない。
適切にお互いを受け止め合う会話ができない限り、決めつけのコミュニケーションでは有益なアドバイスは得られないことが多い。
生きていた時代や価値観が違ければ違うほど。
けどたしかに、そこにある愛を感じられた。
だから、それだけでいいんだ。
そこだけ受けとって、私は今まで通り、自分の大切にしたいものを大切にして、不器用な歩き方だったかもしれないけど、心のままに生きるよ。
そして、振り返れば。私も今まで、決めつけのコミュニケーションをよくしてしまっていた。
母に対しても、先輩に対しても、友達に対しても、恋人に対しても。
だから、全部全部、許すよ。
私がされたことも、私がしてしまったことも。
会話が終わって部屋に戻った頃には、
ただ愛を感じられたこと、
お母さん自身の感情を感じ取ったこと、
今までの私のコミュニケーションスタイルに対する後悔。
それでも自分自身を生きるという決意。
色んなものが入り混じって泣いた。
私も、結局は、"お母さん"という鏡を使って私を愛しているのだ。
最後に。
今は"分かり合う"が出来てなくても、
それを望むのは無理難題かもしれなくても、
それでも、"分かりたい"と願うことが愛なのだったら、
"分かってほしい"と願うことも等しく愛なはずだ。
いつか一緒に、心に触れ合って、笑いあいたい。
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