おいしいじかん

このところアイスコーヒーばかり飲んでいるような気がしたので、久しぶりに暖かいブレンドを買い、駅のホームで一人飲んでみた。午前中とはいえ日差しは厳しく、汗がじっとりとわいてくるようでなんだか特別おいしいとは感じなかった。ただ、ここ半年ほどの殺伐とした社会の中で東京に一人ぽつんと暮らす女子大生には、おいしいよりも重要な安心があったような気がする。

一人でもたいていの場所へ行ける私は、元来の出不精や連絡をめんどくさがることもあって、友達と連れ立ってカフェやレストランに入ることは少ない。考え事に行き詰まるといつもキンキンのアイスコーヒーが飲みたくなって、汗をかいたグラスを横目に手帳に何やら書き連ねている。人よりもキャパが小さい私は、そういう自分の世界のひとりぼっちに浸る時間が必要なのだ。イヤホンからは好きな音楽、文房具屋さんで選び抜いたお気に入りの200円くらいのペン、紙の匂いのするノート。さみしいと思ったことはなかった。


今年もアイスコーヒーを満喫する予定だった私がなぜ唐突にホットのブレンドを飲みたくなったのか。たぶん、あまりにも一人になってしまったからだと思う。大学にも行けない、実家にも気軽には帰れない、気軽に友達を誘うこともできないまま、ゆっくりと希薄になっていく人間関係。lineなどで話はするが、やっぱり現実とは遠いし、一人の時間をおもてあまして閉じられた心では返信すら億劫だ。それに大学の友達は実家暮らしの子が多く、余計にさみしくなったりする。ゆったりと窒息していくような、そんな毎日。人見知りしてしまうし不器用すぎて仕事覚えも悪いので、アルバイト先でもなかなか友達と呼べる人はできない。四月の二十歳の誕生日はたまたま実家で迎えることができ、家族と乾杯をしたが、それから人とお酒を飲んだのは数える程度で、いつも一人で宅飲みばかり。一人は得意だと思っていたのに、随分とさみしい日々だ。


一人が好きだったのは、いつでも一人じゃなくなれるからだったのだろう。友達や家族といるか、一人でいるかを選べたから、美味しかった。久しく母とコーヒーを飲みながら午後三時ののんびりとしたおしゃべりもしていないし、父と深夜に間接照明だけを付けた部屋で酔いに甘えて本音を話したりしていない。姉と初めてしっかりお酒を飲んだ日は、いつも不敵に笑いながらもまじめに努力する彼女の、弱音や自分にはどうしようもないような社会の悲しいい現実にすらいちいちちゃんと傷ついている心を垣間見て、やはり姉妹だなあと思った。友達とオンラインで飲んだ時、ひたすらヴァーチャル背景でげらげら笑ったが、通話を切った後の静けさがつらかった。


誰かと乾杯したい!!


一人に浸っていられるのは、いつでもその冷たい海から上がって暖かい砂浜いる人たちとビーチバレーやバーベキューができるからだ。強制的に海に浸り続けていたらがちがち震えてしまうし、絶望という大きな魚群が見える。あれが私を食い殺してしまうサメのように大きな絶望なのか、小さな不安が折り重なってスイミーたちのように大きく見えているのか、わからない。東京の端っこ、ライフセイバーは助けてくれない。しかたがないので、島を作って、一人でも楽しいんだと騙し騙し生活していく。


わたしにコーヒーの味を教えてくれたのは母だ。最初は、香りは好きだけど味は苦くて苦手だった。それでも徐々にその苦みのおいしさを知って、今では一日三杯ほど飲んでしまう。

ビールの苦みに慣れずまだ飲めない。自粛が明けたら、どうか誰か私にビールのおいしさを教えてほしい。そして乾杯してほしい。二十歳になったばかりの小娘に、お酒の嗜みを教えてほしい。合うおつまみ、美味しい割り方、お財布にやさしいお店、エトセトラ、エトセトラ。


それまで今は、一人の島で好きなおつまみと缶チューハイで、嫌なことをひと時忘れながら、気長にゆったり待つのだ。

おやすみなさい。



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