「怒られ続けたスペインレストランでのバイト生活」エッセイ

 上京してからの初めてのアルバイトはスペインレストランのホールだった。最初に住んだのは笹塚という街で、商店街を進んだ奥の方にある最大24名収容の小さなカジュアルレストラン。アパートから徒歩2分という立地が応募の決め手だった。

 研修期間と、貸し切りのパーティが入る時以外は、料理を作る40代後半の店長とアルバイトのホールスタッフの2人でお店を回す。小さいレストランだしラクかなぁなんて淡い期待を持って働き始めたが、とにかく決まり事が多く、決まりからずれたことをしてしまうとこてんぱんに怒られた。

 ほとんど初めてのアルバイトだったのもあり、私はミスをしまくっていた。BランチをDランチと聞き間違えて違うものを持っていく。対応していないカードなのに確認を忘れて受け取ってしまう。お一人様なのに大きい席へ案内してしまう。などなど。よくあるといえばよくあるミスをたくさんしでかし、一回の出勤につき怒られない日はないほどであった。

 もちろんミスをしたら毎回必要以上に落ち込み、反省し、メモを取って次はミスをしないように改善しようと努力した。

 しかし店長の怒り方はねちっこく、ヒステリックで、少々理不尽であるということがだんだん分かってくる。辞めるまでの1年半に報われることは一度もなかった、そんな辛い思い出の一つである。



 ディナーにお客さん0人ということがたまにあり、ランチに関してはお客さん0人でも驚かないほどだった。2011年の5月から働き始めたのだが、震災後の娯楽自粛の煽りを受けているのだというが、そうなんだろうなと思ったし、そうじゃないかもしれないな、とも思った。

 お客さんが0人だと、掃除や看板の書き直しや伝票の整理などをする。その日はテーブルやイスのメンテナンスを任され作業をしていた。

 イスの中に調子が悪くガタガタしているものがあったので、「ガタガタしているイスがあるんですけど、どうにかなりませんかね」と伝えると「え?なんだって?聞こえなかった」と言うので先ほどより少し大きな声で同じように伝えた。しかし「え?どういうこと??意味が分かんないんだけど」と返されるので私はなんで理解されないのか分からず、もっと大きな声で言うと「え?だからニスがどうしたって言ってるんだよ!はるのさんちゃんと説明できないの?」と怒鳴って言うのだ。

 私はイスを指差して、「これの、調子が悪いんです」と言うと、ようやく伝わったようだった。

 私はどうやら訛りから「イス」を「ニス」と同じイントネーションで言っていたらしい。それで「ニスがガタガタでなんちゃら」と訳の分からないことを言ったと思われたのだ。私はその言い方が当たり前だと思っていたので、「こっちではイントネーションが違うんですね。訛りなんて知らなかったです。すみません」と謝る雰囲気だったので平謝りした。

 店長はイライラが治まらない様子でそのまま自分の作業へ戻っていった。「はぁ、二文字の訛りでこんな怒られるのか……そりゃあみんな訛りや方言を隠したがるわけだ」私はそう思った。

 ガタガタしているイスは少なくとも私がバイトを辞めるまでそのままガタガタしていた。「このイス、ガタガタしてるわねぇ」なんてお客さんに言われたりしていただろうに。



 ある日、料理を持っていく順番を間違えたとかそういうミスをしてしまい、お客さんが途絶えると店長は”語りかけモード”に入った。

「はるのさんは、人生一度目だからミスをたくさんするのはしょうがないんだね」と店長は急に言った。私はかなり戸惑ってしまいなにも言えない。

「人って輪廻で何度か人生を繰り返すらしいけど、はるのさんは珍しいことに人生一度目なんだよ。だいたいみんなは何回目かなんだけどね。鈴木さんとかは入ってすぐに仕事は完ぺきに覚えてくれたし、凡ミスも全然ないし人生十度目くらいかな。だからはるのさんは失敗しても気にしなくていいよ。出来が悪いのはしょうがないんだから。」

 鈴木さんとはバイトの先輩であり、私の一回り以上上の30代の女性のことである。確かに彼女は仕事を卒なくこなすしその上余裕もある、そんなデキる人だ。

 私は、言われたことに対して、目の前がグラグラしてしまうほどの衝撃を受けてしまった。「はぁ……だから私はミスばっかりなんですねぇ……なるほどなるほど……」なんて上の空で返事をしている。

 もちろん鈴木さんは仕事がデキる人だけれど、私との年齢差の十数年で色んな仕事や経験をしてきただろう。そしてこのレストランでのバイトでさえもう何年もやっているベテランだ。その差を「人生何度目かの違いだからしょうがない」と言い決めるのは鈴木さんにも私にもかなり失礼なのではないか。

 後々にはそう思えたのだが、この頃私は店長からのヒステリックな怒られ方にかなり参っており、出勤前は体調を崩してしまったり、行きたくないと友達に泣きついたりしていたような時期だったので「ああそうか……私は人生一度目だからこんなにいくらがんばってもミスばかりなんだ。これからどんなに気をつけたってミスをし続けるし、いくら少しくらい成長したからといって店長に認められることもないのか」とどん底まで落ち込んでしまったのだ。



 これ以上ないほど落ち込んでしまった私と、怒るよりも諦めることを選択した店長が良い関係になれるはずもなかった。ワインの栓を開けるのに手間取ってしまうと、もうやらなくていいから他のことをやれと言われ、レジを打ち間違えて訂正の仕方を聞こうとすると「もうレジを触るな。紙上の計算だけして。はるのさんが出勤のときは俺がレジを打つから」と料理の合間にレジ業務を店長にさせることになった。

 ここまでのエピソードは入って数ヶ月までの話なのだが、それから辞めるまでは一進一退で辛い状況は続いた。いくら仕事を覚えて少しずつうまく回せるようになったところで、変なプレッシャーがかかれば変なミスをするものなのだ。

 友達に相談してみたり、ダブルワークで他のアルバイトをしてみたりなどを経て途中から、かなりヒステリックでブラックなアルバイトだということに気づいたので、必要以上に落ち込みすぎることは少しずつ減っていった。賄いのおいしさや、シフトの融通の利き具合、出勤時間の短さ、ディナーが終わった後にワインなどのお酒が飲み放題だったことなどでかろうじて続けることができていた。



 この店長との出会いにより、専門学生として1人暮らしをし始め社会に出たばかりの私は、「自分はかなりの劣等生である」という潜在意識が芽生えることになる。

 怒られても気にしなければよかったのだし、すぐに辞めてしまえばよかったのだ。いくらバイトが仕事をできなくても、いくら客入りが芳しくなく精神的にキツい状況だとしても、人格を否定するような言葉で怒ってはいけない。

 私が職場で誰かの上の立場になると、注意したり叱ったりするときには自分のようにキツい気持ちにならないように気をつけている。人を怒るのは難しいので、なかなかうまくいかないけれど。



 これからアルバイトをしようとしている方へアドバイスするとしたら、まずは入ってみて店長や上司がヒステリックだったら辞める選択肢をすぐ持っていいのだということ。あとは個人経営の、特に飲食店は要注意である。飲食店はそもそもアルバイトの中ではすごくツラいのだが、個人経営はアルバイトの所作ひとつも大事な要素となってくるのでとても細かいところまで厳しいところが多い。逆にユルすぎて心配になるような店もあるのでそこは見極めが必要だ。

 ツラいことがあるとすぐに辞めてしまうクセがついてしまうようではもちろんダメである。しかし職場というのはひとつひとつが不思議なバランスや宗教じみた感覚で形成された変な社会構造があるもので、入ってみて変だな、とかおかしいな、とか思うことは普通だと思う。「私がわるいのだから」と我慢して体調を崩すくらいなら、辞めてしまえばいいのだ。所詮アルバイトなんだから。


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