意味のない時間
4月ごろから、できるだけ毎朝、
子どもたちが起きる前に一人で散歩に出かけている。
赤ちゃん鶯のたどたどしい鳴き声や、
耳元をかすめる虫の羽音、
水蒸気で覆われた池
そんな何気ない全てが私の心も、もっと深いところも
リセットさせてくれて、自然と呼吸も深くなる。
森の小径に一歩足を踏み入れれば、
そこはアスファルトで踏み固められた平らな道ではなく、
竹の根っこが盛り上がったり、
蜘蛛の巣に引っかかったり、
五感を働かせないと歩くことができない。
子どもたちもそんな森の散歩が大好きだ。
私は何をするにも
「目的」とか「意義」をいつも一番に考えてしまう癖がある。
けれど、森の中にいると
ただただ淡々と時間が流れ、生まれては死に、
咲いては枯れていく命の営みを感じることができる。
そこに何の意味があるのか
それが誰の役に立つのか
そんなこと彼らは知ったこっちゃないと思う。
でも、彼らがそうしてこの時代に、この場所に
いてくれること。
ただ在ることの価値。
ただ生きているということの価値。
その尊さ。
それを朝の散歩は私に思い出させてくれる。
誰かのためにとか、
目的とか、意味とかをとっぱらって、
ただただ木漏れ日を浴びてほっとしたり、
花を見て綺麗だなと思ったり、
そんな風に私自身が
「意味のない時間」を大切にすることを
自然は思い出させてくれる。
遡れば「意味のないことの大切さ」
これに強く気づいたのは、
長女を授かった2年前、
つわりで私が全く動けなくなった時だった。
ただただ寝ているだけの毎日。
そんな自分に何の価値があるのか、さっぱりわからなくなっていた。
そんな時に夫が本棚から星野道夫さんの本を何気なく
枕元に置いておいてくれた。
アラスカでただ在る自然
環境保全とか、油田開発とか、
そういう目的を持たない自然の意味、
そこで暮らす人々の豊かさ。
星野道夫さんがアラスカで生活されながら感じた言葉が
すとんと心に入ってきて、それを読んだ時に
なんだか深いところで私自身にも癒しが起きた。
その時、
意味があること=価値のあること
という私の中にあった方程式が崩れた。
今の時代って意味とか生産性とか
とりあえずそれが
「どれだけ分かりやすく、且つすぐに誰の役に立つか」に
価値が置かれすぎている気がする。
きっと生きづらいなと思うときって
何か社会に還元できていないとか、
誰かの期待に応えられていないとか、
結果が残せないとか、
何かしら「意味」とか「結果」とか「価値」を
残さないと失格のように感じていたりするからだと思う。
でも、生きることの価値って
それだけでははかれないんだと思う。
もっともっと広くて、
もっともっと自由で、
もっともっと私たちはただ生きているだけで尊いはず。
そんな風に自分が生きていることを
深いところから肯定することを思い出させてくれる時間。
一見「意味のない時間」っていうのは
実は一番深い意味があるのかもしれない。
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