027

FILE 正体

 天から降り注ぐ光は変わらず大岩を照らしていた。
「世界を滅びに導いたものの正体、それをお前は知っている。そのことを認めてこなかっただけだ。だが、お前はそれを既に知っている」
「知っている? わたしが?」
「お前の世界は、お前のこころの投射でできている。なぜこれほどまでに世界は歪んでいるのか、お前はその答えをずっと探していた。
 それは、人々のこころが望んでいるからだ」
「望んでいる?」
「ああ。そうだ。人のこころの中に、それが巣くっている。世界の崩壊を止められなくしてしまったものが」
「それは、なに? どうすれば、崩壊を止められるの?」
「世界を滅びに導くもの、それはひとのこころに巣くっている『あきらめ』だ」
 終わりの世界に満ちた苦しみと脱力にシンクロし、わたしの胸を強烈な悲しみがしめつけた。
「世界はたくさんの顔を持っている。ここはお前のいる世界とはそんなに遠くはない。ほんの数秒違いで存在している世界だ」
「あなたは誰?」
「世界が歪んでしまった謎を解きたい、探求をつづけるお前の声が、いつも響いていた。お前が来るのをずっと待っていた。
 世界は人々のこころの投射でできているのだ」
「まって、教えて。あなたは龍の王様なの?」
 『声』は、わたしの問いには答えず話しつづけた。
「お前が待ち望んでいたのは、お前自身だ。そして、それができるのは、お前以外の何者でもない。
 すべては可能だ。お前が、それを望むならば。お前が望んだことが形になっているのが、その世界なのだから」
「許しなさい。愛しなさい。幸せになりなさい」そう『声』はわたしに語りかけつづけてきた。わたしはそれを受け入れることができないでいた。「わたしなんかが幸せになることは出来ない」と。
 そして、飛行機は墜落する。わたしが愛することを拒絶したその罰のように、破壊は連動して起きてゆく。
 終わることのない痛みが、世界中の命の苦しみが胸に差し込んだ。泣き叫んでも、髪をかきむしっても、大地に跪いても、この身体がバラバラに砕け散っても、その悲しみはほどけることはなかった。
「それを拒否しつづけてきた結果が、この世界だと言うと、お前はなんと答えるだろうか?」
「わたしの選択の結果が、この世界? あの、炎に包まれた、世界?」
「お前が受け入れることを拒みつづけたよろこび。その結果が、この世界だ」
「でも、わたしは受け入れたよ。許すこと、愛すること、幸せになることを。なのに、どうして?」
「そのこころの中に封じ込めてきた、そのあきらめを。お前の中の絶望を、希望で燃やし尽くせ。お前たち人が忘れ去った、人の持つ力の無限性。お前たち人が、なぜこの惑星で生きているのか。この惑星にとって、どういう存在であるか。たったそれだけを思い出すだけでいい。
 世界を滅ぼす力と、世界を創造する力。それは、同じ力だ。
 その力を、希望として使うか、絶望として使うか、選択するのは、お前だ」
 虹色の光の粒が弾け飛び、強烈な風をともなってわたしの周囲を取り巻いた。思わず目をつぶったわたしのこころの中には、一本の道があった。
 なんの手入れもされていないただの道。それは、わたしのこころの中の絶望へとつづく道だと風がささやいた。
 つばを飲み込んで、わたしは足を前へ出した。ひたすら歩いていくと、ドアがあった。それは、開かれていた。わたしはそのドアをくぐり抜けた。
 まっすぐ歩きつづけると、もうひとつドアがあった。そのドアも越えて、わたしはいくつものいくつものドアを越えて歩きつづけた。
 しばらく歩いていくうちにあの洞窟の中のように道は平坦ではなくなり、うねうねと曲がりくねっていった。灯りはなく、ただ胸の中に灯っている小さな光を頼りにでこぼこ道を歩いていった。
 遙か遠くの方に茶色の扉が見えてきた。重厚そうなその扉は、わたしがこの地に降り立って、はじめて見た閉じられた扉だった。
 遠目からその扉を見た瞬間、わたしは帰りたい衝動に駆られた。見たこともないはずのその扉を、わたしは苦々しく感じた。見たくも、触りたくもない。この扉を開けたところに、何があるのかを想像することさえおぞましいと思った。
 何も考えることができなくなって、扉の前に立ったまましばらく時を過ごした。
「お前は、まーた考えているわけ?」
 キヨさんの声が響いた。
「ううん、何も考えてないよ」
 そう言おうとしたときだった。
「えー、いつも言っているさあ。まーだ、わからないわけぇ? はーっしぇ。ちゃーならんさー」
「どうしようもない」と言いながらも彼女は笑っていた。わたしの頭の固さと、あきらめの悪さを、いつも叱り飛ばしながら笑っていたように。
 大きく深呼吸すると、あの海と空を思い浮かべ、胸の中の樹が結ぶ天と地を想った。その枝は天を目指して伸びつづけ、葉は風と遊び、根はどこまでも深く広く、地球をひとめぐりする。大地を踏みしめる両足に力を入れて、その扉の取っ手を握る両手にすべての力を込めた。
「深淵に降り立って、その闇をくぐり抜けなければ、光を取り戻すことなど、どうしてできるというの?」
 息を止め、歯を食いしばり、力を入れると、ようやく扉はひらきはじめた。
 少し開いたその扉から強烈な風が吹きつけ、わたしの髪を空へと踊らせた。真っ黒く、異様な腐った臭いの立ちこめる空気。何年も閉ざされたままで発酵しつづけるその記憶。
 恐ろしくて、この手を離したくてたまらなかった。けれど、わたしは知った。この闇の扉をあけることが出来なければ、わたしはどこへも行けない。
「もう大丈夫。なんにもこわくなんてない。わたしは、わたしを愛して生きてゆくよ」
 再び力を込めて、扉を開け放った。強烈な風が渦を巻いて扉の向こうからやってきた。その風に吹き飛ばされそうになりながらも、足を踏ん張ってその扉が二度と閉まらないように押さえつづけた。
 扉を開け放ち、足を踏み入れると風はぴたりとやんだ。振り向くと、扉も道もなにもなくなって、上も下も前も後ろも右も左もわからない真っ黒な中に、わたしは在った。
 黒い粒々が部屋中に充満していた。ミストサウナにはいると全身が霧に包まれて濡れてしまうように、わたしは黒い重い粒で真っ黒に染まってしまった。
 その粒はわたしだった。わたしは姿を失い、その場所のあらゆるところに在った。
 黒い粒は、深い悲しみとあきらめが砕け散ったものだった。さみしさに満ちた、からっぽの場所。黒い空っぽの数え切れない粒。
「ここがわたしの一番深い場所だなんて・・・」
 苦しくて、悲しくて、涙がぽろぽろとこぼれてきた。こんな暗い場所で、誰にも触れられず、声をかけられず、抱きしめてもらうこともなく、バラバラに砕け散ってしまうほどの絶望に襲われていた黒い粒。
「わたしの中のからっぽの場所。どうすれば、満ちてゆくのだろう」
 話しかけてもすべてが通り抜けて行き、抱きしめようとしても、抱きしめられない。
 粒のひとつを手のひらに乗せて両手でくるむと、わたしの手の中でぱちんと弾けて色が生まれた。粒に触れるたびに、悲しい記憶や苦しい記憶が弾けて飛んでゆく。そのたびに手のひらで再生されるのは、こころの底に封じ込めてきたたくさんの記憶だった。弾けたあとの黒い粒は、石灰のしずくがやがて鍾乳石を形づくるように、どんどん床に溜まっていった。
 ゆっくりゆっくり呼吸をして、たくさんの時間をかけて、そっとそっとあきらめの粒を手のひらで再生する。再び開かれた苦しみを味わって溶かして、じわりじわりと悲しみを溶かして、数え切れないほどの粒が両手の中で再生されていった。黒い粒のすべてを見終わったとき、そこに残ったのはでこぼことした黒い柱だった。そして、再生されたすべての記憶は、消化の済んだ過去という存在となり、わたしを再び傷つける力を持たなくなった。
 あきらめの塊の柱を両手で抱きしめると、柱はゴーレムのような形になった。わたしはその黒いあきらめの塊の手を取って歩き出した。
 今にも崩れ落ちてしまいそうな重く黒いあきらめの塊。暗い階段を上って外への扉を開くと、そこには太陽がやさしく輝く草原が広がっていた。蝶が飛び交う草原でわたしとあきらめは立ち尽くした。
 再び歩きはじめると、美しい川が見えてきた。
 そっと、そっと。わたしたちは川に入っていった。蝶があきらめの頭に留まると、川は真っ黒に染まった。わたしは川を汚してしまったと驚いて、すぐにあきらめを連れて川から上がろうとした。けれど、蝶は飛び立つことなく、あきらめの頭に留まっている。
 流れ続ける川は、清浄な水を運び、そしてあきらめの黒をそのしずくに取り込んで、とどまることなく流れ続けてゆく。あきらめから放たれる黒いものは水とひとつになって、どこまでも運ばれていった。
 川の水と、渡って行く風と、お日様と、木々たち。鳥が歌い、虫たちは川で浄化されるわたしたちを眺めている。
 やがて水によってあきらめが流されてゆくと、ゴーレムの形は崩れ落ちて、その中からちいさな女の子が姿を現した。少女はおとぎ話に出てくる妖精のような白い服を着ていた。
「ねえ、歌って」
 少女はコロコロ笑いながら、小鳥がさえずるような声で言った。天使のようにかわいくて、妖精のようにはかなくて、うれしそうに無邪気に笑っている。
 少女がわたしに飛びついて抱きつくと、とっても甘い匂いがした。少女の両腕から三角錐状になったまばゆい光がわたしの胸へと注がれる。ろうとのような形の光は、胸から入って全身に広がりすべてに行き渡りわたしを満たしてゆく。
「なに? あなたは誰?」
「わたしもひかり」
 細胞が歓喜し、魂は境界を失い、解きはなたれてどこまでもどこまでも広がってゆく。白くて美しく輝く、喜びに満ちたわたしの世界。そこに存在するすべてのものがありのままで、個性が開花し、生を謳歌していた。
 今ならできると思った。この子の手を借りて、自分のすべてを受け入れることが、今なら。
「ねえ、手伝って」
 少女はちいさくうなづくと両手を空にかかげた。ぐるぐると両腕を廻すと、空間もねじれはじめた。
 こころの中に閉じこめていた重い記憶が、逆回しになって甦ってくる。
 海の中からはじまった生命。わたしは海の空を羽ばたいている。いや、ちがう。それは龍の海に飛び込んだわたしの姿だった。
 沖縄の道をひたすら歩きつづけ、歯を食いしばり、汗と涙に濡れて。
 海を渡る大きなフェリーに乗った、大海原の中の小舟のように怯えて揺れつづけるわたしのこころ。
 おばさんの狂気にも似た怒り、親戚の冷たい視線と下世話な笑い。
 うれしそうに本を読む芳明との探求の日々。
 好きなんだよとくり返しながら犯しつづける博史、暴力で踏みにじられつづけた性。
 博史の猛り狂ったペニスが怯えきったわたしの膣を突き刺してゆく初めての経験。
 両親のけんかを見て見ぬふりをして、天井を見上げる。
 誕生日のケーキと優しい声で歌うおかあさん。
 喜びに顔をぐちゃぐちゃにして抱き上げほほにキスをするおとうさん。
 母の産道を伝い生まれいでた瞬間、肺の中に広がる生温い空気、爆発的な恐怖と不安感で泣き叫ぶ無力な赤ん坊。
 やさしい管で結ばれた暗いおだやかな海の中、ひたすらに細胞分裂して成長し進化する。
 あたたかくおだやかな光の中で、生まれゆくことを選んだ。

 なんにもないところに、ぷくぷくと泡が立ちはじめた。
 その泡の中に、生まれたばかりの銀河が渦巻いている。
 ちいさな泡の銀河をのぞき込む宇宙。その宇宙もまた、宇宙にのぞき込まれていた。たくさんの重なりあう入れ子状の宇宙を、膨張しつづけるその果ての果てに立ちのぞき込むと、くるりと反転して、それはたくさんの宇宙にのぞき込まれる銀河になった。ふいっと風を送ると、ぺらりとめくれてそれらは揺れ動き、やがてぱちんとはじけ飛んだ。
 気がつくと、わたしはあの教室に立っていた。
「ああ、これはあの日だ。わたしの一度目の人生の最後の日だ」
 見慣れた夢の中にいるように、わたしはまたしても傍観者としてそこに存在していて、一七才のわたしが机に突っ伏して叫んでいた。
 戦争の勃発におびえて、なにもできないままにただ恐怖に震えている子ども。小さな家の中に閉じこもって、世界が終わることを夢見ていたわたしがそこにいた。
『声』は、そんな情景などお構いなしに、わたしに問いかけてきた。
「真実を受け入れるのは恐いだろう。自分自身が、この世界を生みだしていることを認めるのは、恐いだろう」
 あの日のわたしを見つめると、彼女の想いがこころに流れ込んできた。
 わたしのこころの中で世界は炎に包まれて、すべてが燃えていた。人も、木々も、建物も、犬も、猫も。
 博史を憎んで、父と母を恨んで、世界が終わることを望んでいたのは、わたしだ。あの家の中で行き場のない怒りを抱えて、世界が今すぐ崩壊することを望んでいたのは、わたしだった。
「こんな世界なんて終わって欲しいと、望んでいたのは、わたし」
 そのことを認めた途端、ぐにゃぐにゃと世界が揺れはじめた。あの日のわたしが想い描いた炎に包まれて、わたしは燃やし尽くされた。あきらめも、苦しみも、怒りも、悲しみも、憎悪も。業火の中ですべてが燃え尽きた。
 最後に宇宙に残ったのは、わたしの中に忘れ去られていた、希望だった。

「ひかり。
 大丈夫だよ。もうそんなところにいなくていい。そんなところから世界を眺める必要なんてない。
 その目を見開いて、きちんと見て。起こっていることを知って。
 大丈夫。そのこころが見ている世界を、見えないふりをするのはもうやめて、ほんとうの世界を見なさい。そして、まっすぐ生きてゆくの。こころのままに。自分自身を信じて歩いてゆきなさい。
 生きなさい。
 許し、愛し、幸せになりなさい」

 わたしは、あの日のわたしにそれだけを告げると、胸がいっぱいになって、もうなにを語ることもできなくなった。


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