人の心に踏み込むこと
職場では17時ごろまでずーっと1人。
今日の授業準備を終えて、トイレに入る。温かい便座に座ってふっと息をついた時、あることを思い出した。
「あぁ、あの時から私は人に聞かなくなったんだ。」と。
私には、18歳年上の恋人がいる。
彼はとても優しくて、私のことをとても大事にしてくれる。世界中の誰より、恋人という存在に愛されているという自信を私にくれるほどに。
恋人とは半同棲の生活をしている。先々週の金曜日、私は仕事で少し嫌なことがあって、どうしても彼に会いたかった。
「今日は来る?」毎日のやり取りの中で、今日も最寄駅に到着する時刻が書かれた返事が来ると思っていた。
「ごめん。明日朝早くから用事があるから、今日は行けないや。」
返ってきたのは、予想とは違うものだった。
なんだ、今日は来れないのかと落胆して、いつも通り、ひとしきり駄々をこねてから「おやすみ」を言った。
数日後、ふと彼のスマホにメッセージが入った。何の気なしに画面を覗いた私の目に入ってきたのは、「この前の公演、面白かったですね。」の文字。
公演?なんのこと?
キッチンで洗い物をしている彼に、メッセージが届いたことと、今さっき芽生えた疑問を伝えに行った。
「お友達からメッセージ来てたよ。公演がなんとかって言ってたけど、なんか見に行ったの?」
「あれ?少し前に、知り合いがやってる演劇を見に行くって言わなかったっけ?」
恋人の言葉に納得をする。あぁ、この前来れなかったのは、それを見に行く予定だったからか。
「言ってないよ。この間来れなかった時の?教えてくれれば良かったのに。」
「そうそう。ごめんごめん。だって聞かれなかったから。」
彼の「だって聞かれなかったから」の言葉にもやもやとする。
友達に新しい彼氏ができたとき。どうやって出会ったのか?なぜ彼を好きになったのか?いつ付き合いだしたのか?相手の年はいくつなのか?名前はなんて言うのか?
同僚が病気をしたとき。どこが悪いのか?どう具合が悪いのか?いつから悪いのか?どうやったら治るのか?仕事は大丈夫なのか?
ある出来事が起こったとき、私の得る情報は、いつだって相手がくれたものに限る。
そして、私は新しい情報を得たとき、大抵のことを彼に話すのだ。
恋人はどんな話も聞いてくれる。ふんふん、そうなんだ、それはまた大変だねぇ、へぇ〜、それで?
それで・・・?
「それで、その子はなんでそうなったの?」
「知らない。」
「えぇ〜、気になるじゃん。何で聞いてこないの?」
「だって向こうから話されなかったし、言いたくないのかなって。自分からは聞けないよ。」
私が得た情報を話すうちに恋人が聞いてくることは、相手にとってすごくプライベートなことだった。とてもじゃないが私が聞けるようなものではない。
このやり取りを繰り返す度、「この人は知りたがりだなぁ」とか、「普段の会話からそんなことまで聞いているんだろうか?」とか、彼がすごく特異なタイプの人間なんだろうと感じていた。
挙げ句の果てには、「彼のように質問が浮かばない自分は、本当は相手に対して興味がないんだろうか」とまで考える始末だった。
しかし、決してそうではなかった。
私は昔、とても積極的な子供だった。小学生の時は、グループのリーダーをすることや、みんなの意見をまとめて発表することが好きだった。中学生の時は、みんなに褒められるのが嬉しくて、人と違う意見を発表したり、弁論大会で全校生徒の前で発表したこともあった。
少なくともその時代までは、自分の気になることや聞きたいことは、全て声に出して聞いていたのだ。
それが一体いつからだろうか?
目立つことはしたくない、人前には立ちたくない、自分からは何も聞けない、完全に受け身の人間になってしまったのは。
トイレから出た私は、高校時代の自分を思い出していた。
高校1年生、中高一貫でそのまま持ち上がりで入学した高校は、メンバーも変わることなく、中学生の気分がまだ抜けないままスタートした。
新しいクラスで1.2ヶ月過ごす中で、私は薄々嫌な予感がしていた。そしてそれは的中した。
新しいクラスで仲良くしたグループは、全部で5人だった。そのうちの2人は、今回のクラス替えで仲良くなって、元から私がいた3人組に追加される形で落ち着いたのだった。
ある日、学校に着くと、すでに4人が仲良く話し込んでいた。
「おはよう。」
「「「「おはよう!!」」」」
挨拶を済ませて、席に着く。授業の準備も終えて、4人の元に行く。
会話に入れない。
もともと進んでいた会話の話題について行けず、しばらく愛想笑いをする。その時みんなは、私のあまり好まない邦画について、大層盛り上がっていたように思う。あまり深く考えず、私はただその場にいて、愛想笑いを続けていた。
次の日、また次の日と、同じ状況が続く。
4人の距離感に違和感を覚えながら、1ヶ月ほど経った時、決定的な出来事が起きた。
すでに4人が話し込んでいる教室に入る。
「おはよう。」
「「「「おはよう!!」」」」
挨拶をする私の目に飛び込んできたのは、4人で写っているプリクラだった。それを見たとき、私は途方もない悲しさと寂しさと悔しさを覚えた。
いつ行ったの?どこに行ったの?そこで何をしたの?
どれくらい遊んだの?楽しかった?
なんで私は誘ってくれなかったの?
私は何も聞けなかった。
理由なんて分かっていたからだ。
先に言っておくと、これはイジメではない。挨拶もみんなしてくれるし、朝の時間が終われば、私が会話に入れないことはほとんどなかった。(全くなかったわけではないのも事実だが。)
4人と私とで違っていたこと。それは学校から帰る家の方向だった。4人は下り列車、私は上り。帰り道に4人で遊んだプリクラという証拠は、最初に感じた嫌な予感が的中したのだ、ということを私に見せつけた。
理由は分かっていた。だから私には、「私も誘ってくれれば良かったのに」とは言えなかった。
それから私は人にあまり質問をしなくなったように思う。関係ないじゃないかと思う人もいるかもしれない。要は、理由を知って、あるいは事実を突きつけられて、自分が傷つくのは嫌だということなのだ。
こういう思考が生まれると、あとはすごく簡単で、相手は聞かれるのが嫌なことかもしれない、あまり仲良くない自分が聞いてもいいことではないのかもしれない、などと余計な考えが頭の中を占めるようになる。
私の出来上がりだ。
恋人にいつも、「なんで聞いてこなかったの〜」と、お小言を言われる私だ。
久しぶりにみぞおちがきゅ〜っと切なくなる出来事を思い出した私は、時間になって授業を始めた。その日担当したのは、中学1年生の女の子。なんだかその日は元気がない。
「珍しいね、元気ないじゃん。」
「ちょっと部活で疲れただけだよ。先生の中学生のときってどんな感じだったの?」
タイムリー(完全に自分の中だけで)だなと思い、思わず笑う。
「中学生じゃないけど、高校生の時にさ、〜」
「へぇ、私だったら、「私も一緒に遊びに行く!!」ってどんどん言っちゃうな、勝手について行っちゃうかも!!」
なんだかおかしくなって、笑ってしまった。教室中に響き渡るくらいに。
「そうだよね、言えばよかったんだよね!」
その日、彼女になんで宿題をやってこなかったのかとことん聞いて、部活は理由にならないと説き伏せたところで1日の終わりのチャイムが鳴った。
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