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表には見えないところ

空の奥を覗き込みながら、数限りない偶然の連なりを思う。産まれてからずっと、いや、産まれるもっと前から。濡れた髪からまた身体が冷えてきた。それでも今、私はここにいる。世界を覆う小さな光の群れの下、小さなヘッドランプをひとつ灯して。始まりも終わりもなく続く偶然の連なり。そしてきっとそれは偶然などではないのだ。(中村広子『ゴゥワの実る庭』)

全ては偶然なのだろう。でも、何もかも必然のことだったようにも感じられる。過去形になっているところがミソだ。
そのことを、どこから見るか。
これから起こることは何だって偶然の荒波に呑まれるだろう。しかし、それを未来から見れば全て必然の出来事であり、歩いてきた後には必ず道が出来ている。

例えば、昨年の秋、ある人からの連絡が自分にとっては大きな転機になった。その人はそんなこと夢にも思わないはずだが、こちらは(密かに)感謝しているのである。というのも、動きを止(と)めることは、他人から見れば停滞かもしれないが、自分にとっては、止まっている時の方がよく動いているような気もする。

動いているところを(表向きに)必死で見せているとしたら、そのことは、そう長く続かないだろう。大事なのは、表には見えないところで、どれだけ動けているか、ではないか。

(つづく)


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