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100人に届ける

先週、「とても書ける気がしなかった」と書いて(それでもあれこれ書いて)終わったが、今週はますます書ける気がしない。──でも(そう言いながらも)とにかく何か書いておきます。

何となく鬱々としてきたのを感じている。さぁ、これをどう生かそうか、と思う。強がりだ。強がりでもいい。強がっていられるうちは。強がっているのは、弱ってきていますと言っているのに等しい。こういう時、どうすればいいか、いろんなアイデアがあろうが、ぼくは、泣くのがいいと思う。涙をぽろぽろ流し、声をあげて泣くといい。しかしまだそんなふうに泣くタイミングを見つけられずにいる。見つけたら遠慮なく泣くつもりだ。

知り合いのおばあちゃんが、彼女はいま90歳くらいのはずだが、「こんなことは経験したことないわ」と言っていたという話を聞いた。そりゃ、そうでしょうね。あと10〜20歳くらい上の人なら、こどもの頃に少し覚えがあるかもしれまんけどね。

アフリカキカクで準備していたことも、全然(いや、すごーくゆっくりとしか)進められていない。自分で自分が嫌になる? 嫌にはならないが、自分のノロさに少々呆れてはいる。まきこんでしまっているみなさん、すみません。何年も、何十年もかかってやっていることだったら、しかし数ヶ月とか、数年とか遅れても、ほんのちょっとしたことですね?

生きている限り、やりますから、待っていてください。こんな時だし、『アフリカ』を楽しみに読んでくださっている、まぁ、多くて、100人くらいのひとたちにむけてつくるのでいいかなぁ、なんて思っていますが…(『アフリカ』を読んでいる人はもう少し多いんですが、でも100人に届けるつもりでやっているという意味では同じだ)

100人に届ける。──その難しさ、面白さを、ぼくは知っていると思う。

何が言いたいか。100人だと、読んでいる人がとても身近に感じられる。そりゃ、1人とか2人とかの方が感じられるだろうが、それでは感度が強くなりすぎる。数十人くらいの読者は得られる方が、書くひとにはいいんじゃないかと思う。読む方にとっても、万とか千とか分の1の自分より、百分の1くらいの自分(という関係)をもっているのが、ちょうどいいんじゃないか。身近に、そういう規模の"社会"があると、面白いよ! と言いたいわけだ。

付き合ってみれば、万人千人の関係が、百人の関係より素晴らしいかというと、まぁそうでもないということはわかってくる。考えてみればすぐにわかることで、どんなベストセラー作家でも、いつも目の前にいる1人には、届けられないかもしれない。人数が少ない方が、むしろ緊張感がある。

そういえば、「ともだちひゃくにんできるかな」っていう歌がありますね。

息子が今日、小学生になりました。彼が生まれてきた時、ぼくは、あぁ、人って、やっぱり生き物なんだ、動物なんだ、ということを思い知った。あたりまえだ、と言われるかもしれないが、この社会は、そのことを前提にしてつくられていないような気がしている。生き物、動物というのは、命あるもので、場合によっては簡単に消えて、いなくなってしまう。ぼくが感じたのは、そういう"儚さ"のようなもので、この社会はそういった"儚さ"を基礎(ベース)には考えられていない。むしろ命をないがしろにしていると感じることの方が多くないか。6年前の春に思い知った、そのことが、いまここにきて、また突きつけられている。人は、いつでも、あっけなく死ぬかもしれない存在である。自分も、そうだ。

いま、こうやって生きているというのは、奇跡のようなことなんだ。あらためて、そのことを感じ直してみる。

(つづく)

あの大陸とは“あまり”関係がない道草の家のプライベート・プレス『アフリカ』。読む人ひとりひとりの傍にいて、ボソボソ語りかけてくれるような雑誌です(たぶん)。その最新号(vol.30/2020年2月号)、ぼちぼち販売中。


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