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思いつくままに

今年(2020年)は、ここには週1回、月曜日に書くということにしている。昨年は365回書いたから、今年はその7分の1になるが、週1回にした方が1週間の過ぎ去るスピードは速く感じられてるかもしれない。

先週の「そのことばを伏せて書いてみよう」では、いまから考えると、まだ随分呑気なことを書いていたというような気もしている。

今日は、知っているひとがそのことで亡くなったというニュースに触れ、会ったことはないがよく知っているような気がしていたひとだ、これまでにもそのことで亡くなったひとはおり、今後増えるだろう、その中の1人にすぎないということはわかっているのだが、やはり"知っている"ということは大きくて、なんとなく気持ちの重さが違う。ただ彼は有名人だったというだけで、無名人(?)だって1人の死には違いないのに。

こんなことを、ぼくがここでこうやって書いていて、どうなるというんだろう。そんなことを思わなくもない。

何か明るくなれるような話でも書けば? いや、そんなものが自分に書けるだろうか。書いてみないとわからないが。書いているぼくが暗い気分なのに、読んでいるひとに明るい気分になってほしいなんて。

しかし暗さを極めると光が吹き出すのではなかったか。

と書いてみたものの、そんな「極める」なんていう気分でもないのだった。

ただ、だらだら書いていたい。

先週、ある日の朝のページで、「この機会に、もう1冊くらい本を書いてみれば?」と言い出すひと(自分の中の)がいた。「書けんのか?」と言い出す自分もいて、「書けばいいんだろ?」とか言い出す自分もおり、しばらく話は続いたが、朝のページは毎日1ページだけと決めているので余白がなくなったらおしまいだ。

(このことは何度も書いているので説明するのが面倒になってきたが、朝に何でもいいから書くページが自分には存在する)

「もう1冊」というのは、もうすぐ完成する本があるからだが、それは1999年から2020年にかけてのアンソロジーで、書き下ろしたわけじゃない。「もう1冊」というのは正確じゃない気もするが、細かいことを言っても仕方がない。

だいたいその本の作業も、止まったままだ。いやスタッフは動いてはいるのだが、肝心の自分自身がこんどのことで、止まっている。いま、つくってよいのだろうか、と思うところもある。いいよ。だって、1人も読者がいなくてもつくるんでしょう? まぁね、『アフリカ』もそうだけど、ぼくは、人に読んでほしいからというよりは、「残す」ためにつくっているからさ。でも読者はいるよ。見えるところにいるじゃない。ありがたいことにね。でも、彼らがいなくてもつくるよ。じゃあ、何を迷ってる?

よくわからない。

いつだって簡単にゆかないひとなのだ。ぼくは。

でも焦る気持ちもある。もし今日、明日、ぼくが急に死ぬとしたら、嫌だけれど、死んでしまったら「嫌だ」と言っても仕方がないよね。その時、悔いがないようにするためには、いま自分がつくっている本がどんなものなのか、生きている誰かにそれを渡しておく必要がある。協力をお願いしている仲間に、とりあえずメールで送る。やりとりをするということには、そういう意味もある。自分のところで止めておかないこと。

死を意識するということは、それだけ、いま、生き生きとしているということではないか。意識すればするほど、遠くまでゆけるような気もする。

 *

ぼくはちょうど10年前の、2010年3月末に、大阪での暮らしを捨て(途中に京都市で2年間住んだのを含めると12年間、その地方で暮らした)、東京の西の方にある、府中市の美好町に引っ越した。

なぜ府中だったのか。それまで何の縁もない。ただのなりゆきだ。関西でなければ、どこでもよかったのだった。ぼくは、根無し草だった。

その直前に、ぼくはもう会社勤めをするのを止めて、つまりぼくはこのぼくでしかないような生き方ができないものか、と模索し始めていた。社会に対する絶望感は大きかった(それはいまだに膨れ上がる一方だ)。しかしそんなことを言っても大半の人は「ようするに、無職?」でしかなく、東京には親しくしているひとたちが少しいたが、孤独な時間が始まりを告げていた。孤独の色は、どんどん深まっていった。その先に、東日本大震災のある春が待っていた。

ぼくはもう何度も死んでいたような気がしている。でも生きた。

だから簡単にはジタバタしない。というより、いくらでもジタバタできる。駄々をこねて、嫌だ! と叫ぶ。恥ずかしさはない。社会の常識よりも、生き物としての勘の方を信用する。

さぁ、ここで、自分は何を書ける? いま、自分には何ができる? ウェブを使ってやることなら、いまは何だってできそうだ。

もうどうしようもない、となって踊り出すこどものような気持ちで、一緒に何かわくわくすることやろうか、と仲間たちに声をかけようとしているところだ。仲間たちと言ったが、一緒にやりましょう、となるひとは全員が仲間なので、一緒にやりましょう。さぁ、何をやろうか。すぐにできそうなことから徐々に始めよう。

今日はとても書けるような気がしなかったが、何とか書いた。

(つづく)

あの大陸とは“あまり”関係がない道草の家のプライベート・プレス『アフリカ』。読む人ひとりひとりの傍にいて、ボソボソ語りかけてくれるような雑誌です(たぶん)。その最新号(vol.30/2020年2月号)、ぼちぼち販売中。


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