【特集】『アフリカ』vol.33(2022年2月号)のライナー・ノーツ
希望をたやすく語らない。
それがその人の希望の持ち方だ。
(長田弘「その人のように」より)
『アフリカ』最新号(vol.33)が出てから、もう3ヶ月がたちました。その『アフリカ』と並行して編集作業に入っていた『モグとユウヒの冒険』(井川拓・著)も今月ようやく完成して、少しホッとしているところです。
この間、その"冒険"に集中していたので、『アフリカ』最新号の方はほったらかし気味(?)になっていました。でも出来立てホヤホヤの時よりも、少し時間を置いてからの方が感じられることもあるかもしれない。
制作ノートのような、楽屋話のような文章は、「水牛のように」3月号に書いています(「『アフリカ』を続けて(9)」)。
ここでは、その『アフリカ』vol.33を、あらためて読み返して、ひとつひとつの作品、パートをご紹介してみましょう。
その前に、『アフリカ』って何?
簡潔に言うと、私(下窪俊哉)が読みたいと思うものを折々に集めて、つくっている雑誌です。
書いてほしいと思うひとに声をかけて、つくっている、と言った方がよいかもしれません。何を読みたいかは、自分でも初めからわかっているわけではないからです。
個人的な雑誌、プライベート・プレスなどと呼んでいます。 表紙にはいつも「アフリカ」という誌名と、発行年月のみが記されていて、切り絵(を画像化して印刷したもの)が置かれています。
何の雑誌なのか、表紙を見ただけではサッパリわからない。
「vol.33」というのも奥付に書いてあるだけで、他には書かれていないので、何号なのかもすぐにはわからない。最初の頃は奥付にも書かなかったので、「号数のない雑誌」なんて呼ぶ人もいました。
切り絵は、最初の号からずっと"切って"くれている向谷陽子さん。今回は「手網焙煎」というリクエストを(珈琲焙煎舎の10周年を意識して)出していましたが、その後、「カマキリ」もいいなあとなり… 送られてきた切り絵を見て、どちらを表紙にしようか検討します。
よし、カマキリだ!
表紙をひらくと、今回は装幀の守安涼くんによる写真が出てきます。この時代を象徴するような場面のひとつなのではないか、と感じます。写真の中に文字があり、"読める"というのもp1に選んだ理由です。その文字をくり返し見ていると、見慣れているその漢字の四文字が、ちょっと不思議に思えてきたりして…
次に出てくるのは、犬飼愛生「相当なアソートassort① 応募癖」。タイトルからしてすでに何か可笑しい? 作者によると「お漬物の気分で」、つまりメイン・ディッシュではなく添え物のようなエッセイ。何かに応募する際につける「雅号」の話です。
それにしても可笑しい。よく書くなあ。私はどんな「応募」にもあまり熱心ではないので、犬飼さんのようなひとの気持ちはよくわかっていませんでしたが、これを読むと、なるほど、と思います。「癖」のない人はいませんから。
これが今回の目次。右ページには、いつものように制作にかかわった人たちのクレジットのページがありますが、いつものように途中から怪しい団体名が出てきたりして妙なことになってます。そのページをつくる時間は、いつも編集人(私)のお楽しみです。
ふざけ出すと、調子が出て面白いことになる(ことが多い)。どうすれば自分が本気でふざける気になれるか、工夫するとよいかもしれません。
それに続くUNI「ほぐすこと、なだめること」、堀内ルミ「書くことについて」、下窪俊哉「船は進む──なにを、なぜ書くか」、田島凪「むしろ言葉はあり過ぎる」の4篇は、「なぜ書くか/なにを書くか」という問いかけに応えて昨年末に書かれたもの。
「心がざわざわする。放っておくと、このざわめきは消えていくことを知っている。」──UNI「ほぐすこと、なだめること」はそう語り始める。「残したい」と思って書くのだ。しかし誰のために、何のために残したいと思うのだろうか。UNIさんは考えながら動いてみている。
その動き方に、そのひとが出る。考えながら書き始めるのだが、すぐに別の行動を起こして、考え直す。そのへんが面白い。でもさ、そんなことのくり返しなのかもしれない。
後半には、自分が何を書くのか、書きたいのか、書いてゆこうとしているのかについての考察があります。
それはどうやら「生きる」ことに深くつながっているからでしょう。共に考え続けてゆきたい問いです。
堀内ルミ「書くことについて」を、どんなふうに紹介すればいいか…たった3ページの文章の中にたくさんのことが詰まっていて。
困難の多い人生、自分は一体何をしに生まれてきたのか? と問う時、堀内さんにははっきりしていることがあるようです。そして自身を救ってくれた3人の"先生"が登場します。
「書くことについて」書きながら、堀内さんはある出来事に巻き込まれています。そのラスト・シーンを、私は忘れられないでしょう。そこで見た風景を坦々と書いているだけといえばそれだけなのですが、これが"書く"ということなんだ、と感じながら私は読んでいます。
下窪俊哉「船は進む──なにを、なぜ書くか」は、書くことをめぐるワークショップの振り返りを書き出しにした、ある種の葛藤の記録です。
3つのパートにわかれていて、最初のパートは昨年12月にここ(note)で書いた文章に手を入れて、改稿したもの。
3つめのパートは、その時の文章教室のために書いて、読んでもらったもの。真ん中のパートは、『アフリカ』に載せるにあたって追記のようなつもりで書き下ろしたものです。前篇と後篇で追記を挟んだんですね。
「ことばが動くと音が鳴り、イメージの風が吹く」──その先に何が現れ、何が感じられてくるんだろう。導かれるようにして書きました。
その、最後の方で回想している2冊の文庫本です。
『ニューヨーク空間』の方は(大事に持ってはいるものの)20年以上読んでいません。この機会にちょっと開いてみましたが、日記のような形式をとっていますね。1992年の、1年間を書いたエッセイ。
write what you want !
という発言について私は「本の最後」と曖昧な書き方をしていますけど、いま探したら、文庫版のあとがきの最後の方にありました。
田島凪「むしろ言葉はあり過ぎる」は、2021年の秋から冬にかけて「胸の潰れるような喪失」が続いた季節を振り返って書き記されたエッセイです。その頃、田島さんには「手垢にまみれたバイブル」のように手離せなくなったある1冊の本がありました。
その本は、アレクサンダル・ヘモン『私の人生の本』。「むしろ言葉はあり過ぎる」でたびたび言及されちえる「アクアリウム」を、私も編集の過程で読みました。
生まれてきて9ヶ月の娘が、突然、「水頭症」で命の危険にさらされ、死んでしまうまでの108日、そして果てしなくひろがっている「その後」を描いている。
「死を受け入れる」とは、どんなことなのか。──田島さんがすがるような思いでその本を、抱え込むようにして読み、書いている姿が、「むしろ言葉はあり過ぎる」にはあります。
嘆きながらも、書き手はある場所に今日も戻って来ます。そこには、困難を抱えつつも、未来へ向けて歩き始めているあるひとの姿と声があります。
髙城青「ねこはいる」は、昨年亡くなった父親の不在と、数年前から飼っている猫との暮らしを書いた短文で、句点がなく改行が多いのはメールの文章だからだ(私は日本語の文章に、句読点が絶対に必要だとは思っていない)。けれど、これを「詩」と呼ぶ読者もいるようで、それはそれで構わないと思っています。
書き手と編集人とのやりとりが、そのまま原稿になったような小品、と言っておきましょうか。もちろんそのまんまではないのですが…
「こんな面白いことがあるんや、ってことを書きたいよね。」は、昨年夏にリリースした犬飼愛生のエッセイ集『それでもやっぱりドロンゲーム』の舞台裏を語り合った雑談の記録。
犬飼さんにとって詩を書くときとエッセイを書くときは、かなり違うようです。そんな話から始まり、エッセイのネタは日常の中に幾らでも転がっているというような話、「これは書かない、と決めていることはありますか?」という質問に対する回答、このタイミングでエッセイ集をつくろうと思ったわけ、読者はどこに? という話、あの本の構成がどうやってできたか、などなど。話すのは、いつも楽しい。その先に、その雑談をこうやって記録して残しておく面白さもあります。
その雑談のページには、『それでもやっぱりドロンゲーム』の表紙のために装丁の守安涼くんが描いた"どろんちゃん"を、宮村茉希さんが模写(?)した絵をたくさん使わせてもらいました。遊びに遊んでいます。このへんが『アフリカ』らしいところです(自分で言うな?)
続いて、芦原陽子「なくした手袋が教えてくれたこと」は、ふとしたことで気づいた自分の中にある小さな違和感に、じっくり付き合ってあげた冬の出来事を書いています。見開き2ページの短文ですが、こういう(その時々の)雑記を、『アフリカ』はとても大切にしています。
UNI「さらわれていた朝」は、『アフリカ』vol.33の中で唯一の、小説らしい小説と言えるかもしれません。とはいえ、野心的な作品です。朝のウォーキング中毒者となった「わたし」には、何やら自分にだけ聞こえる声があり、話せる相手があるらしい。しかし、その境界はどこまでも曖昧です。
奇妙な夫婦関係、本当に存在するのか不安になってくるような隣人との関係、インターネット空間で行われるふわふわとした交流が、「さらわれていた朝」の背景にひろがっていて、私はその風景を眺めるようにして読んでいます。
そんなふうに"眺める"ような小説は、日本ではおそらく少数派でしょう。今回の『アフリカ』の、真ん中付近に、守り神のように(?)置かせてもらいました。
それに続くのは「元旦の陽」に始まる守安涼による4枚の写真。p1の写真も合わせると今回、5枚を載せています。
パンデミックの時代の飲食店で(と、いつかそう見る日が来るでしょう)アクリル板越しに見る少女の表情、ほか。
これらの写真を、例えば10年後、20年後、どんなふうに見ることができるんだろう? と考えると楽しみでもあります。
「ニカラグアの珈琲農園──『珈琲焙煎舎の本』のアウトテイク」は、タイトル通り、『珈琲焙煎舎の本』に入りきらなかったインタビューの一部です。
2017年2月に訪問したニカラグアのモンテクリスト農園がどんなところで、どんなふうな仕事をしていたか、の見聞録を少し。
話した本人にとっては、もっともっと伝えたいことがあるようなので、また遠くないうちに、話してもらうか、書いてもらうか、してほしいと思っています。
下窪俊哉「珈琲を淹れる」は、2011年11月12日から12月24日までの日々を日記風(?)に書いたもの。珈琲焙煎舎がオープンして2日目に初めて顔を出すところから始まります。10年前の、日々の小さな出来事や考え事をどうやって思い出したのでしょうか?
全て細かく覚えていたなんてことはもちろんなくて、記録をもとに、創作を入れて埋めていったもの。とりあえずざっと走り書きしたような状態なので、そのうちにもっと埋めてゆきたいような気もしています。
「美しいフォーク」は、犬飼さんの最新詩集に入っている(もともとは『アフリカ』に載せた)「おいしいボロネーゼ」のアンサー・ソング的な作品で、マ・マーを茹でて、食べるという日常風景に家族の歴史を重ねています。〈母〉は犬飼さんの詩にとって重要な存在のひとつでしょう。その〈母〉の声が、この詩からは聴こえてきます。
続いて出てくるのは黒砂水路さんによる「校正後記?」。vol.30に「校正後記」が初めて載りましたが、いまは「校正後記?」というタイトルで続いています。今回はファクトチェックの話。密かに人気がある(らしい)ページです。
そして、『アフリカ』vol.33のラストを飾っているのは、宮村茉希「マタアシタ!」。タイトルがいいでしょう? 横浜、伊勢佐木長者町で三代続く実家の印刷会社を、幼い頃の自分の記憶を元に書いたエッセイです。
幼少期のことを回想して書く中には、いろんなことが見えてきます。スッと伸びていった時期もあるし、ガタッと崩れるようなことになった時期もある。人も植物と同じで(なんて言うのは変でしょうか)伸びたいと思う方へ素直に伸びることが出来れば元気で、無理やり修正しようとしたらその元気は失われてしまう。回想する中にある街、いま歩いている街。書いている中では幻のようにこだまする過去も、現在も、混ざり合って光の中にある。
さ、まだ終わりません。巻末の方には、アフリカキカクの本+1(2020-2021)をご紹介する見開きページをつくりました。
これは、そのカラー版。
最後の3ページは、いつも通り。フィクションと洒落が現実と混ざり合った「執筆者など紹介」、近況とお知らせを含んだ「五里霧中ノート」、そして「編集後記」です。
「編集後記」は私(下窪俊哉)が『アフリカ』の最後のページに書き続けているエッセイのようなもの。手にしたら、まず編集後記から読む、という方が以前は多かったような気がしましたが、いまはどうでしょうか?
「読みながら、語りたいたい」なんてことも書いていますが、そんな語り合いの会を久しぶりに、これからちょっとウェブ上でやってみようかな、と思っています。今夜(5/29)20時から、Twitterのスペースという機能を使って試しに1回、やってみます。聞いてみたい、参加してみたい、という方はコチラをチェックしてみてくださいね。
(つづく)
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