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うまくいえない音をもって

危機的な状況になったら、とにかくじっとしている。
じっとして、時間をやり過ごす。
タンカノゴイはただ自分のやり方を通しているだけなのだが。
(梨木香歩「一羽で、ただじっとしていること」)

毎日書いている「朝のページ」を書くのが億劫になることはあまりなくて(体調が悪い時など例外はある)、それはやっぱり習慣になっているからではないかと思う。ここ(note)に書くのも同じで、毎日書いていると苦ではないが、少し時間を置いて書こうとすれば、やや腰が重くなっているのを感じる。それでいきなり『アフリカ』最新号について詳しく書こうという気にあまりなれないので、助走をつけるつもりで少し書いてみよう。

昨年の11月、3年ぶりに「活字の断食」をした。自分の心を守るためにやったことだが、とても良い時間で、いまでもその時間が懐かしくなる。

その直前に知って、手にした本があった。

『ぼくは川のように話す』という絵本。作者のジョーダン・スコットはカナダの詩人で、1978年生まれ。ぼくは1979年1月生まれだから、同じ歳かな。絵を描いているのは同じカナダの画家で、シドニー・スミス。1980年生まれということは、同世代ですね。

ある少年の物語、その少年とは、かつてのジョーダン・スコット自身でもあるようだし、じつは、かつてのぼくでもある。

彼には、「うまくいえない音」がある。しかし彼の中には、ことばが溢れるようにあるのだ。しかしそれは「やっかいな音」であり、彼は口をつむいでいる。

学校の教室で、先生からあてられて、クラスのみんながぼくの方を(いや、彼の方を)見る。その時に見ている風景が、絵に描かれているが、じつに見事だ。ぐにゃぐにゃによじれて、濁った水の中のような風景…

調子が悪い日というのは、本当に言葉が出てこない。学校にゆきたくないと思う。でも行くんだな。言葉が出ないということが、そんなに大ごとのようには多くの人には感じられないようだ。この苦しさは、誰にも理解されないだろうなどと思うこともある。これは絵本に書いていることではなくて、自分のことなのだけれど。

放課後、お父さんが車で迎えてきてくれて、「うまくしゃべれない日もあるさ。どこかしずかなところへいこう」と言い、彼を川へ連れて行く。川は、川辺は、美しい。心が静まってくる。それでも、考えずにはいられない。気づくと、考えてしまっている。

その時、お父さんが川をさして、「あれが、おまえの話し方だ」と言う。

絵本の巻末にある「ぼくの話し方」という文章を読むと、それが詩人の体験だということがわかります。

彼はその日のこと(その日は、1日だけではなかったかもしれない)を大人になってもずっと覚えていて、話すことを「川」のイメージで捉えて、そのことに助けられてきたんでしょう。

澱みのない流暢な話し方が、自然なのではなくて、自然というのはむしろ「どもるもの」なんだ、と気づいた時、それが彼にとって生きてゆくための哲学になったのでしょう。

ぼくは長い時間をかけて吃音の人たちの話(他人事のように言ってますけど、その中には自分もいる)を書いているのですけど、この詩人が書いているように「吃音は怖いくらいに美しい」と感じることもある。吃音がなければどんなに楽だろうか、と思うこともある。しかしそれはバラバラではありえず、どちらもなければならないことなのでしょう。

いまつくっている本を仕上げたら、再びその話の中に入ってゆきたいと思って、毎日短い時間でも彼らの話を聞いてみているところです。

(つづく)

アフリカ』最新号の楽屋話は「水牛のように」3月号に書いたので、ぜひご一読を。「水牛」、面白いですよ。表紙(トップページ)の絵も面白いので、ぜひそちらから。

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