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母親と仲良くできない娘の話

お久しぶりの投稿です。

ここ数ヶ月で母親との関係が悪化しました。うつになって仕事をしてなくてお金もなくて、そんな私のことを心配して連絡してくる母ですが、どうしてかいつも口論になり、数ヶ月それの堂々巡りで私は母とのやり取りに疲れました。

病院のカウンセリングの時にはいつも親子関係について話しているのですが、今までの話から先日先生に愛着障害について話をされました。そして、『愛着障害 子ども時代を引きずる人々』(岡田尊司 著)の本を紹介され、現在それを読み進めてる最中です。半分くらいまで読んだのですが、当てはまることが多すぎて今の私の状態を表す言葉として「愛着障害」はしっくりくるような気がしました。しかし、先日母から連絡が来た際にその話をすると、「あんたは愛着障害じゃないよ、あんたがそう思いたいだけで状況を悪くしてんじゃないの」と責め立てられるように言われました。

私は3姉妹の長女として生まれました。記憶にはありませんが3歳下の妹が生まれるまでは第一子ということもあって、大切に育てらていたと思います。おそらくそこまでは愛着の形成がうまくいっていたのではないかと思いますが、妹が生まれてから幼少期の物心がつく時に脱愛着を引き起こすような出来事を上記の本を読みながら思い出しました。

まずは、真ん中の妹が生まれてからすぐのことです。兄弟がいる長女、長男あるあるだとは思いますが、お姉ちゃんなんだから我慢しなさいと言われることが多々ありました。そして、出来事自体は覚えていないのですが母方の実家にて妹に私が何か悪さをしてしまい、両親、祖父母、親戚総出で叱られた記憶があります。これに関しては私にも非はあったのだと思いますが、この出来事で私には味方がいないのだと母方の実家が苦手になったような気がします。

そして、妹が生まれから就寝時川の字で寝る順番が変わりました。妹を両親が挟む形で私は母の隣の隅っこで寝ていました。母はいつも妹の方を向いて寝ていて、幼少期の私はひどくそれが寂しくて、でもお姉ちゃんだから我慢しないと怒られると思い毎晩声を出さずに泣いていました。

私が小学1年生の時にショッキングな出来事が起こります。母が交通事故で入院したのです。事故当日、私が通っていた小学校で親子給食という親子で一緒に給食を食べる参観日のようなものがありました。当然その時は母が交通事故に遭った事も知らず、周りの子の親は来ているのに、私の母が来ないことに強い不安がありました。そして結局ひとりで給食を食べることになった私は悲しくて給食を無理やり吐くという行為を行った気がします。そして、夕方児童館にいた私は急ぎで迎えに来た父から事情を聞かされて大変大きなショックを受けました。命に別状はなかったもののしばらく入院することになった母に代わっって母方の祖母がうちの世話をしにやってきました。妹は母と一緒に事故に遭ったため、外傷はありませんでしたがしばらく入院で私と父、祖母の3人で暮らしました。当時の私は祖母が苦手だったこともありますが、やはり母に対するショックが大きすぎて父から離れたくない、学校に行きたくないと癇癪を起こしていました。毎朝癇癪を起こして、集団登校ができず、最終的に無理やり祖母に連れて行かれる形で学校に行っていました。

脱愛着の決定的な出来事となったのが、小学4年生になった時に転校したことです。当時の私は環境が変わったことで同級生となかなか馴染めませんでした。同じ学校に従兄弟がいたため、その影響で習字を習い始めましたが、私の作品が賞に選ばれたことがきっかけで、クラスの中心にいた女の子から嫉妬を買い、仲間はずれにされました。私はそのことを悩み、母に相談しましたが、母は私に変なアドバイスをして私にも悪いところがあったんじゃないのと言われ、私は私自身を責めるようになりました。その後も何度か母に相談しましたが私が期待していたような返答はもらえず、その時から母は私の安全基地ではなくなりました。父は泣いたら怒る人だったので当然相談もできず、本当は学校に行きたくないけど両親の前では良い子でいないと怒られるという気持ちと、両親に縋りたいけど安全基地ではないので頼れない気持ちで、私なりに精一杯過ごしました。学校では休み時間にひとり机で泣いて、私がひとりなのは私がいけないんだと自己否定をして、、

過去を振り返り、両親が安全基地でなくなってしまった時点で、愛着障害なのではないかと私は思ったのです。

中学校に上がってから就職するまでは、とりあえず表面上うまく生活してきました。勉強もそれなりに頑張って、部活も頑張って、人間関係も頑張って、今まで私なりに必死にやってきました。でも、これまでの出来事で私の自己肯定感はド底辺まで落ちていた訳で、今まで我慢してきたことが爆発してしまい、現在うつになりました。就職で上京をして親元を離れた私ですが、働いていた時はほどほどの距離で親子関係が悪いわけではなかっと思います。うつになって休職すれば、そりゃ両親が心配するのは当たり前だと思います。しかし、離れて暮らしているため母は事細かに私の生活についてか知りたがるようになりました。何時に起きて今日は何して、何を食べて、誰々と会って、など、、それを数ヶ月に渡り仕事に復帰してお金の不安がなくなるまで続くのですから、私はその問答に疲れ果ててしまいました。ただ私は心配してくれるならうつになってしまった私をそのまま受け入れて欲しいだけなのに、私の何がいけないのか言及され、社会人としての責任感を求められ、金銭管理ができていないと責め立てられ、、主に連絡をとっているのは母なので次第に関係が悪化し、私は母に対し怒りのような憎悪のような感情を抱き始めました。本音を話せばどちらが悪いと言い合いになり、相互に理解することが最早困難になったため、私は諦めて自分からの連絡をやめました。しかし、そんな私にしびれを切らした母からまずはLINEが来て、返信をしないでいると電話が来て、私はもう話したくないのに勝手に向こうの近況報告をしてきて、そして愛着障害のことを話すとはじめの方で書いたように責め立てられました。もうこれは修復不可能なのではないかと思うくらい私は母に対して絶望してしまったのです。

色々考えた結果、私自身お金の不安を除けば、自立した生活ができているし、実家に頼らなくても良くなるので、より関係を悪化させないためにも転職活動の時期を早めて行動しています。でも母から連絡が来た途端に私は頭が真っ白になり感情的になり理性ある会話ができないので、もうどうしたら良いのかわかりません。もう気持ちがぐちゃぐちゃで何を書いているのわからなくなってきましたが、これが母親と仲良くできない娘の話です。

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