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《春枕のひととき》境界にある鏡

プロローグ

銀座の裏通りにある小さな茶房「春枕」
階段をのぼり、看板のない白い扉を開けると、すぐ横に大きな鏡が掛けられている。

訪れる人は、みなこの鏡の前を抜けて、店内に足を踏み入れる。薄暗い場所に、ひっそりとたたずむ鏡に、気づくことはほとんどない。しかし、誰もがこの鏡を通り抜けたときから、何かが少しだけ変わる。

過去と今、この世とあの世の境界が、ほんの少しあいまいになり、心の中に眠っていた感情や記憶が、そっと揺れ動くのだ。


ある日、一人の男性が春枕を訪れた。

彼は白い扉をあけ、鏡の前を通りすぎて、桜の前に座った。鏡の存在には、気がつかないままだったが、どこか不思議な感覚に包まれていた。

店主の春花(はるか)は、温かいお茶をいれ、男性の前にそっと差し出した。
お茶の香りがほのかに漂い、湯気が立ちのぼっていた。「ここは、外の世界と、時間の流れが違うようですね。」と、彼はつぶやいた。

「そうなんです…」と、春花は静かに答えた。
「ここでは、今と過去、そしてこの世とあの世が、少しだけ、かさなることがあります。入口の鏡が、その境界を、ほんの少し曖昧にしてくれるんです。」

「鏡ですか?」男性は驚いたように聞き返した。「入ってきたときには気づかなかったけれど、そんなものがあったんですね。」

春花はうなずきながら、鏡の方に視線を向けた。「みなさん、あの鏡を通り抜けて、ここに入ってこられるのです。心の奥に眠っている思い出や感覚が、そっとよみがえることがあるんですよ。」

男性は一瞬、言葉を失った。
春枕に入ってから、なぜか言いようのない気持ちに包まれていることを思い出した。記憶の底から、何かがせり上がってくるような…確かにどこか、心が揺れていた。

茶碗を見つめながら、静かに口を開いた。「なんだか、何かに気づいてしまいそうな感じがするんです。僕には、それを知りたい気持ちと…同時に、怖さがある。」

春花は微笑みながら返した。「無理に、何かを思い出そうとしなくても、いいのですよ。」

男性は静かにお茶を飲みながら、胸のうちにある、ぼやけた輪郭のそれを、遠くから眺めていた。記憶の断片がぼんやりと浮かび上がるが、それは形にならないままだった。

言葉を続けようとしたが、ふと口を閉じ、静かに目をふせた。ふいに、自分でも理由がわからないまま、目頭を押さえた。

彼はもう一口お茶を飲み、ふっと小さく息をついた。


エピローグ

静かな時間が流れ、人々は春枕を後にする。
桜の前から立ち上がり、白い扉へと向かう。

彼らは、入ってきたときと同じように、鏡の前を通り過ぎる。鏡の存在に気づくことなく、ゆっくりと扉を開け、外の世界へ戻っていく。

別に何かが変わるわけではない。けれど、春枕で過ごした時間が、知らず知らずのうちに、心になにかを残していくのだろう。その背中を静かに見送りながら、鏡は今日もそこにたたずんでいる。