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どちらが『いい』絵か

絵を2パターンに分けて描き、夫に
「どちらがいいと思う?」
と聞くことがある。

色使いと構図が違う2種類の絵を前にして、夫は
「この絵で伝えたいことは何なの?」とか「この絵の設定は?」
「これは誰の視点?どういう状況?」
と、想定していたこととは別の、こちらを少し考えさせる質問をしてくる。

すると私は段々不安になる。

「私の絵に『伝えたいこと』が足りないのか?」
「この絵で状況が分からないということか?」
「この絵は『いい絵』じゃないのか?」
「見ても何も分からない絵になっているのだろうか?」

という気持ちになるのだ。
自信をなくしながら一つひとつの質問に答える。
すると、
「だったらこっちの方がいいかなあ?」
と夫も2パターンの絵からひとつを選び取ってくれる。

夫はこう言う。

「『10,000円のオムライスと3,000円のオムライスです。どちらが『いい』と思いますか?』と聞かれている気持ちになる。
どっちも普段食べてるオムライスより高いオムライスやし、きっと美味しいけど、『いい』オムライスを選べと言われてもよく分からない。」

なるほど?

私は私の立場で考えてみる。

「私の場合だと、夫がプログラミングした2通りのソースを読まされて、『どっちがいいと思う?』って聞かれてるのと同じ感じかな?
『ソースが短いからこっちの方がいいんじゃない?』とか『メモリを食うのはどっちかな?メモリ食わない方がいいんじゃない?』とか」

「そうそう。」
夫はやっと理解してもらえた!という顔をした。
「回答するには判断材料が足りないんだよ。持ってる自分の知識で必死に回答をするんだけど、『メモリ容量はひとまず気にしなくていいよ。それ以外で考えて。』とか返されてる感じ。判断材料が減って、余計に分からない。」

私も理解が追い付いた。

「なるほどー!最終的に『プログラム動いてるならどっちでもいいじゃん!』ってなるやつだ。」

「それ。」

私は、私の中での『いい』絵を明らかにして、そちらに進んでいるかどうかを聞かなければならないということに気づく。

絵というものには、大衆が『いい!』と感じる正解があり、それはどんなときでも単純明快なのだろうと思っていた。

絵を描かない人が直感的に『この絵がいい!』と思う感覚は、ちょっとしたテクニックの違いにも敏感で、どちらがより「いい!」と感じるか分かるものだと思っていた。
その「いい!」に向けて絵のテクニックを選べばいいだろうと。

しかし『いい!』を基準にテクニックを選びたくても、見た側に『優劣』であるテクニックの『いい!』は分からないのだ。

「私の絵の場合、テクニックをもってテーマを補強する方法を2種類とったときに、どちらが『いい』絵と感じるかという漠然とした印象、一般論みたいなところを聞きたかったんだと思う。」

「分からん。どっちも『いい絵』でしかない。どっちが『好き』かは答えられるけど。」

「そうだよね。ごめんね。」

私は質問の仕方や内容を間違えていたことを反省した。

「私は夫に「どっちの絵がいいと思う?」と聞くとき、何か私が気づいていない『私の絵のとてつもない欠陥』を突きつけられるのではないかと怯えていた部分もあるなあ。」

それを知りたくて聞き、それを聞きたくなくて恐怖していた。
だから絵を見せた後に質問をされるとどんどんと自信を失う。
何かの核心に近づいているのではないかと感じたからだ。

夫は勢いよく言った。
「それって僕への信頼がすごいけど、絵の知識の量や絵を描くことに時間をかけてきたあなたと僕とでは分かることが全然違うでしょう。
僕がその『欠陥』を見つけられるのなら僕がイラストレーターやってるよ!!!」

そりゃそうか。
となって、話は終わった。

読んでいただきありがとうございます!! まだまだ描くぞ~!