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やめた〜い!

 仕事辞めたい。絶対この環境との相性が最悪だ。
 以前よりも細かいミスが増え、数少ない朋友・集中力もわたしに背を向ける。限界が足音を立てながら背後に迫ってきている気配を感じながら働いているが、わたしは何かを辞めることが非常に苦手だ。

 何かしんどいことを伝えたくて人に相談する。ただでさえテンション低めなわたしは、当然嫌なことについて明るく前向きには話せないし、辛気臭い顔で陰気な内容を話すので、間違いなく「早く辞めた方がいいよ」と言われる。
 そこで「だよね!やーめた!」とアドバイスを追い風にしてさっさと見切りをつけられるならいいが、助言されたわたしはかえって目の前のことに拘泥してしまって辞められなくなる。

 何かを辞めた方がいいとかやらなくていいと言われた時に、それが「弱くて頭おかしくてダメな君にはそれ以上出来なくても仕方ないんじゃないの」の意味なのか「君はよく頑張ったからもう辞めても大丈夫だよ」の意味なのかが分からなくて、疑う必要のないことまで疑い始める。自分が「本来辞めるべきではないこと」を無責任に放り出して辞めようとしているのか、最善策として「辞めてもいいこと」を辞めようとしているのかが分からない。

 誰が見ても絶対に間違いなくこうなのだと徹底的に証明されないと、自分の気持ちを信じて何かを選んでいいと思えないのだ。したいことが何なのか分からないし、わたしには選ぶだけの根拠と正当性がないように思ってしまう。

 だからわたしの身体はどうにか根拠を得て辻褄を合わせるために各種原因不明の体調不良に陥るのではないか。一理どころか十理くらいありそうだ。
 でも、これが続くと何があっても真っ先にストレスを疑われて、他にも定かな原因がある時でも原因を見落とされるようになるので本当に肝が冷えますよ。本当にいやだ。なんとかしたい。

 わたしは脊髄炎を心因性尿閉と言うしかなかった時のことを一生忘れない。自分ではそんなわけあるかよと思っていたけど、色んな検査しても当時は原因不明だったし、何せわたしの人生は幼稚園が合わなくてなったっぽいチック症から始まっているから、運良く治った翌年に後遺症が出て神経内科にかかるまで、どこをひっくり返しても「あなたは自分では何も心当たりがないほどの些細なストレスでも日常生活を送れなくなる人間だ」を補強していく証拠しか出てこなくて、いくら否定したくても否定できなかった。どれだけ違うと心を信じたくても誰にも証明できなかった。

 10年経てば笑い話になるだろうと思っていたら、それ自体は本当にそうなったので自分の運の強さには感謝しているし、日常のありがたみを痛感した良い経験だったと感謝することも今となってはできるが、原因不明の状態で味わったつらさは記憶に焼きついているから、客観的な理屈で白黒はっきり証明できない物事や感情で判断しないといけないことが怖すぎてずっと堂々巡りが起きている。

 わたしは不器用かつ妙なところで神経質なので些細なことを人よりも針小棒大に考え込む傾向があるのは事実だけれども、つらさの比較に導尿用カテーテルを持ち出すものだから余計に目の前のことの捉え方が分からない。冷静に考えるとたいていのことは心身共にあの時より全然つらくない。そりゃそうだ。
 だから本当は何とかしようと思えば何とかできる気がするし、できるなら何とかすべきで、できないのは弱くて努力が足りないからだみたいに思ってしまう。いかれた遠近感でいまいち程度を測れないままじわじわと歯車だけが噛み合わなくなっていく。
 この自己批判の目が厳しすぎて身動き取れなくなっていくので本末転倒だ。自分から逃げたい。

 追憶オブリガートを読んだ時、推しの穏やかさや優しさや前向きさや優秀さには憧れるばかりで共感とは違うけど、どんどん煮詰まって収拾がつかなくなっていくところとか、明らかに偏った考えを変えられずに突き進んでいくところとか、どこ見てるのかよくわからない感じとか、生きにくそうな部分については他人事とは思えなかった。殉教とか自己犠牲とかそんなたいそうな思想でああなったんではないんだろうなぁということだけは身に沁みて伝わってくる。苦しかろうな。
 これほど何が何だかわからないほど格好良いにも関わらず、これほどまでに陥る失敗と葛藤のパターンの愚かさはよくわかる気がして感情移入してしまう人物もなかなかいないよ。自分の仲間と出会えた気持ちすらした。
 それなのにどうしてあなたはそんな風に心優しく誇り高く生きられるんだ。

 もしこんな時、あなたが私の前にいたなら迷える人間をわざわざ鞭打つようなことは言わないだろうが、それはそうとあなたが私だったらどうやって辞めるんだろう……。

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