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日記 20240316

思うことがあってカウンセリングを受けているのだけれど、日常生活の中でモヤモヤした時や真っ白になってしまう時の自分の感情を具に観察してみましょうと言われ、確かに自分の感情をありのままに受け止めるということをしなくなっていたなと気づいた。
感情を俯瞰して客観視して、自分自身が一番傷つかないような着地を求めることは、自分自身の剥き出しになった生の感情を受け止めることとイコールではない。言語化と理屈を並べることがなまじ上手な私は気づかないうちに前者を選び続け、自分のありのままの感情に段々と疎くなってしまっていた。

私には時々思い出す子供の時の記憶がある。
大人になって親に確かめてはないので、もしかしたら私の記憶違いかもしれないが、小学校低学年の頃、寝つきが悪かった私はある日寝たフリをしていた。すると母親に見つかり、真っ暗な夜中の家の外に出されそうになった。当時の私にとって、夜中の家の外というのは怖くて知らない世界で、そこに追い出されるということがただただ恐怖だった。だから泣き喚いて抵抗して部屋のドアにしがみついた記憶がある。
私はそのことを思い返すたびに、眠れない子供を泣かせれば興奮してしまうので逆効果なのでは?どうしてそうしたんだと面白く思おうとしていた。人に話す時も笑いながら話した。育児経験もない私が話すのも失礼だし、きっとその時の母親は疲れていたんだろう、と。
でも、昨日カウンセラーと話していて、それは私が自分を守るために自然と身につけた術でしかないことに気付いた。本当はもっと悲しんだり、怒ったりして良いのかもしれない。別にそれは、今母親を糾弾することとイコールではない。過去のことを遡って責めることにあまり意味を感じないし、謝られたところでその出来事が私の人格形成や今困っていることに大きい影響を与えたという事実は何ら変わらない。

でも一方で、私の悲しかったり怒りたかった気持ちを無視し続けることで、失ってきたものについて考えたことは正直あまりなかった。というか、失うものがあると思っていなかった。でも、私の場合、歪みは確実に生じて、少しずつ堆積して、いつの間にか身動きが取れないくらいそれらに押しつぶされてしまっていた。

だから、これから少しずつ自分自身の感情を頭で処理する前に、剥き出しの状態で観察できるようになりたい。そのために、この場を、この場でなくても、書くこと、そして対話を行なっていきたい。


20240324
急に海外が恋しくなった。
海外という言葉は、この場合は少し分類として雑なので、もう少し解像度を上げて話すと自分の外側だと感じられる場所。
安心を感じられる場所から、自分の体一つと最低限のものだけを持って、飛び出していきたい衝動が私には度々訪れる。定期的にやってくるその衝動は、特にこの春の季節に多い。
理由は明白で、初めてカナダに行ったのも、カンボジアに行ったのも、そしてリヨンに行ったのも、この季節だからだ。だから、この季節になると、自分一人でどこかに行きたいと思うようになるのかもしれない。
新しいスニーカーを買った。リュックも欲しい。それを身につけて、どこか一人で旅をしたい。

感情を見つめていると、日常生活で頭が真っ白になるのは、自分の価値基準を他人に委ねてしまっている時だということに気がついた。親やパートナー、そういった身近な人から見捨てられたらどうしようという恐怖。それはどこから来るかというと、冒頭の「自分の価値基準を人に委ねている時」だと思う。
椎名林檎の『ありあまる富』という曲の以下のフレーズをこういう時は思い出す。

何故なら価値は命に従って付いてる
ほらね君には富が溢れている

椎名林檎 ありあまる富


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