砂だらけのプールにあるものは「いま」 映画『水深ゼロメートルから』
郷愁でも青春でもない。水のない砂だらけのプールには、「いま」があった。
抜けるような青空と、プールの水色の壁。蝉の声が暑さのイライラをかき立てる中、遠くから野球部の掛け声と打球音が聞こえてくる。
プールには水が張られていない。野球部のグラウンドから飛んでくる砂に覆われて、底に引かれた線は見えない。プールを囲うフェンスには「祝 男子水泳部インターハイ出場」の張り紙。
補習でプールに集められた二人は、教師から砂の掃除を命じられる。砂は野球部のグラウンドからひっきりなしに飛んでくる。何度掃除をしても無駄だというココロ。無駄でもやらないとというミク。偶然やってきた水泳部の二人(チヅルとユイ)を巻き込んで、砂の掃除は続く。
野球部は、プールにグラウンドから砂が飛んできて溜まっていることすら知らない。彼らが熱を入れて練習していることは、遠くから聞こえる数人ぶんの声たちが教えてくれる。野球部のマネージャーがポカリスエットを大量買いしたせいで、プール掃除の彼女たちが飲みたいポカリは、自販機から消える。大量のポカリのボトルはひとりで持てる量ではないのに、マネージャーひとりで運ぶ。誰もそのことに疑問を抱かない。
飛んでくる砂の掃除には、女の我慢が凝縮されている。「若い女性は自衛のために、電車内ではなるべくオバサンの隣に座る」とか、「男性はふつう育児休暇を取りたくても取れないから、女性だけが取ったうえ、育児の代替手段も確保する」とか、のメタファーになっている。どれだけ掃除したところで、グラウンドから飛んでくる砂は減らない。風向きが変わるかなにかしない限り、掃除は続く。
野球部のマネージャーでいるのが、マネージャーに選ばれたことを誇りに思うのが、正統派な女性の生き方。水のないプールに集うのは、はみ出し者。砂を飛ばしてくる側にも、飛ばしてくる奴らをサポートする側にも行けない。女として生きる道は、狭くて細いのだ。せいぜい広く見積もっても2車線ぐらい。男として生きる道は、6車線ぐらいあるのに。しかも女として生きる道の1車線は、男として生きる道と平行に走っている。寄り添うように。
ああ、めんどくさい。
山下敦弘監督の素晴らしいカット割に酔いしれながら、女として生きるめんどくささ蔓延る「いま」のやるせなさに、ため息をつく。
めんどくさい中なんとか生きているミクも、ココロも、チヅルも、ユイも、野球部のマネージャーも、それぞれありようは全く違う。だがお互いを批判したりはしない。干渉はし合わない。尊重し合うというのも少し違う。ただおしゃべりしながら、それぞれに生きている。女性監督が撮っていたら社会派映画になっていただろうが、スクリーンの中にあるのはひとつずつの「いま」。カメラと彼女たちとの距離感が物語る、山下敦弘監督のたしなみ。
映画が終わった後、まだ生理中だったことを思い出してトイレに行く。
ああ、めんどくさい。
1980年代に少年野球をしていた少女のわたし。生理中もマウンドに立っていた自分。チヅルとユイの頑張りが、リアルに我がことのよう。試合後背中からかけられた「おっぱい」。自分は1ミリも悪くないのに、なぜか自分が悪いようなモヤモヤ。女に生まれたのが悪いのか?踊れなくなったミクに「あなたは悪くないよ」と言ってあげたくなる。オバさん、あのおっぱい野郎に言い返さなかったけど、言い返してやればよかった。ごめんねミク。こんな世の中のまんま、バトンを渡すことになっちゃってすまない。
雨が降る。乾いた砂がグラウンドから飛んでこなくなるラストシーン。迷いを振り切ってようやくスタートラインに立ったミクのカッコ良さに、惚れ惚れした。
せめて彼女たちをサポートできる存在でありたい。オバさんにも出来ることは何だろう。ずっと考えている。