見出し画像

役者・三浦春馬の「奇跡」を生む力とは

ずっとずっと、向かい合うことが出来ずにいた。
ようやく観られたのは、つい先日だ。

『僕のいた時間』

2014年の1月から放送されたドラマで、私は三浦春馬さんを役者として認識した。録画した全話を、DVDに焼いた。

『僕のいた時間』に出会う前まで、ドラマの良しあしを自分のこころがどれだけ動いたかではなく、視聴率が何パーセントだとか、友達が面白いと言っていたとかでジャッジしがちだった私にとって、ターニングポイントになった作品である。

ちょうど8年が経過した、2022年1月期。
放送中のドラマを何本か観て、『僕のいた時間』を観なおしてみて、三浦春馬さんという素晴らしい俳優にまた巡り合うことができて、私のこころは素直に喜んだ。

時計の針を、ほんの数日分戻そう。

放送中のドラマを観ていて、どうにもしっくりこないことがあったので、自分の考えているお芝居とは何か、俳優の表現力とは何かを確かめたくなった。そこで愛読書の一つである、『鴻上尚史の俳優入門』を再読することにした。

この本のもっとも好きな箇所である、鴻上尚史さんと高橋一生さんの対談を2回ほど読み直した。

高橋一生さんは、舞台にも出演するし、映画にも出演するし、テレビドラマにも出演する。どこで魅せてくれるお芝居も素晴らしい。そんな彼の言葉を借りれば、お芝居をしていると「なんだか分からないけれど、今すごく気持ちよかった」という感覚があるのだという。対談の中で彼はそれを「奇跡」と呼んでいた。テレビドラマの撮影では、「奇跡」を能動的に作っていく必要がある、とも。

高橋一生さんの言う「奇跡」とはどんなものか、分かったような、分からないようなこころもちのまま、私は8年ぶりに『僕のいた時間』と対峙した。

画面の中の三浦春馬さんは、真摯に、澤田拓人だった。
病気にならなければ、メグと出会わなければ、きっと仮面の笑顔のままで生きていたであろう拓人。病気と向き合うことで、情けない自分を受け入れ、譲れない自分を主張できるようになっていく拓人。

この映像の数々が高橋一生さんの言う「奇跡」に当たるのかどうか、分からない。だが私は、三浦春馬さんの演じた澤田拓人は、やはりたくさんの「奇跡」で出来ているように思うのだ。

私なりの、「奇跡」の解釈。
それは、共演者とともに役を生きる俳優さんのお芝居を、必死に捉えて視聴者に伝えようとする制作スタッフとの絶妙なコラボレーションが生む、なにかだ。

だって、俳優さんがどれだけ真摯に役を表現しても、その表現をちゃんとカメラでとらえて、伝わるように編集してくれなければ、映像作品は成り立たないのだから。

役者さんがどれだけ役と向き合っているか、自分の中に役がキャラクターとして存在しているか、はいくつかのエピソードから垣間見えることがある。たとえば『天外者』で五代さんが髷を切り落とす場面。当初の脚本ではやってきた薩摩藩士たちと斬り合いになる、という設定だったが、「五代さんはここで人を斬るような人ではないと思う」という春馬さんの提案で、斬り合いが無しになったそうだ。

作品をよくするための話し合いが、制作責任者と役者さんの間でフラットに出来ることも、「なにか」を構成する要素だと思う。

たくさんの三浦春馬さん出演作を観てきたけれど、春馬さんの出演作は多くがこの「なにか」に包まれていると感じている。

これだけの出演作が「なにか」に満ちているということは、制作スタッフが、春馬さんのお芝居に引っ張られていた、ということではないだろうか。
彼のお芝居を、まっすぐに観客へ届けたいという気持ちにさせられていたのではないだろうか。

ほんとうに凄いお芝居は、周囲も本気にさせるものなのだ。
三浦春馬という演じ手は、共演者だけではなくスタッフまで本気にさせていたのだと、改めてこころが震えた。

2022年3月18日。何度目かの月命日に寄せて。


 

いただいたサポートは、わたしの好きなものたちを応援するために使わせていただきます。時に、直接ではなく好きなものたちを支える人に寄付することがあります。どうかご了承ください。