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「賞なんてくそくらえ」と言いつつ受賞は嬉しい 高橋一生さん 第29回読売演劇大賞 最優秀男優賞受賞に寄せて

2月6日、日曜日。
朝起きて何気なくTwitterを眺めていると、ビックニュースが目に飛び込んできた。

第29回読売演劇大賞 最優秀作品賞『フェイクスピア』。
同 最優秀男優賞 高橋一生さん。

NODA・MAP第24回公演『フェイクスピア』と主演の高橋一生さんが読売演劇大賞にノミネートされていたことは、知っていた。昨年はストレートプレイをあまり観ておらず、ミュージカルばかり観ていたので、対象となった他の作品については知識がなかった。唯一ミュージカル作品でノミネートされている『ニュージーズ』は大変なチケット難だったうえ、『マドモアゼル・モーツァルト』と公演期間が重なっていて観に行けなかった。

『フェイクスピア』は凄い作品だった。
私の演劇鑑賞歴は大学時代からだ。そこそこ長い。中でもトップクラスだと感じた。
素晴らしい、というより凄い、という言葉がしっくりくる。
劇作家・野田秀樹の演劇に対する熱と言葉の洪水に驚かされ、飄々と作品世界に存在して当たり前のように膨大なセリフを紡ぐ橋爪功さんや白石佳代子さんにまた驚かされ、無色でいながら板の上でまっすぐ客席に言葉を届ける高橋一生さんにまた驚かされる。

感想は、以下のように綴った。


ふと、映画『99.9』の公開時、ある雑誌のインタビューに松本潤さんが答えていたことを思い出した。

「その人でないと演じられない」と言っていただけるのはありがたいし、光栄なことですが、じつは役そのものの核にあるものは、誰が演じても同じ、というか普遍性があるのかもしれません。違いは演じる人によってどうイメージするかーーーそこだけのような気もします。

彼の言っていることは的を射ているように思う。だが、演じる人によっては意図したイメージが観客に届かない、ということがあるのではないだろうか。スキルの問題である。役者が抱いたイメージを適切に表出させられるかどうかは、声を自在に使い分けられるか、しなやかで高い身体能力を持っているか、などに依存すると思っている。

『フェイクスピア』のmonoを高橋一生さん以外の人が演じることは、確かにできるかもしれない。だが、monoと言う名に込められた意味、この作品における声の重要性、身体能力のすべてを考えた時、高橋一生さん以外に適した役者が思い浮かばない。

たとえば、野田秀樹さんはしばしばNODA・MAP作品に妻夫木聡さんを起用している。妻夫木さんは疑いなく優れた役者さんだし、彼の出演した2017年のNODA・MAP『足跡姫』は、私も大好きな作品だ。

だけどmonoは、妻夫木さんではない。やはり高橋一生さんがふさわしい。
まるで、野田秀樹さんが高橋一生さんに当て書きしたのではないかと思うほどである。

読売演劇大賞の公式Twitterに載っている、高橋一生さんへの受賞コメントは以下のとおりである。

かつて高橋一生さんは、「華が無い」と言われたことがあるという。
「華」とは何か。
生来持っている見た目の麗しさだけが、「華」でないことは明らかだ。
宝塚歌劇団トップスターの華やかさを観ていると、思う。
何故なら彼女が身にまとっているのは、徹頭徹尾「研鑽を重ねた芸により作り込まれた」「男の」「華やかさ」だからである。

メイクの仕方、笑顔の見せ方、服の色合い、姿勢、歩き方、所作。
全てが「華」を作り出す要素となる。他にもあるかもしれない。

高橋一生さんは、「華が無い」と言われてからどれほどの研鑽を積んだのだろう。「多くの演出家からの信頼厚い華のある演技派」との評が、すっと胸に入り込み、染み渡る。

野田秀樹さんを始め、制作にかかわった全ての皆さんに感謝したい。
『フェイクスピア』に出会えて本当に良かった。
この作品の真ん中で軽やかに躍動する高橋一生さんを、私は生涯忘れることは無いだろう。

本当に、本当におめでとうございます。
そして、ありがとうございました。

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