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狂気の原子物理学者の弟・裕之が示すもの 映画『太陽の子』

注:本記事はすべて断定調で書いていますが、監督の作品解説や役者さんのインタビュー記事などは参考にしていませんし、ノベライズも読んでいません。素人ですからインタビューなどもしてません。何度か映画を観た上で、あくまで門外漢が個人的に感じたことを綴っています。

2021年8月、今までにあまりないタイプの戦争映画が公開された。
『太陽の子』。第二次世界大戦末期の日本が舞台。この時代を舞台にした日本映画のほとんどは反戦色が濃く、過剰に悲劇的だ。だけど『太陽の子』は少し違う。淡々としたトーンで、戦争に直面した若者たちを描く。

主人公は柳楽優弥さん演じる石村修。修は京都帝国大学に籍を置く若き原子物理学者で、海軍からの命を受けた荒勝文策教授(國村隼さん)の元、新型爆弾の開発に携わっている。物語は修の関わる新型爆弾の開発と、戦時下での日常を軸に進んでいく。

三浦春馬さんは、この映画で修の弟・裕之を演じている。軍人だった父の跡を継いでいる彼は、一言でいえば「一般的な戦時下の青年」だ。研究者としての純粋さと少しの狂気をはらむ修とのコントラストは、そのまま修と当時の徴兵される若者たちとの温度差。

この映画の春馬さんの芝居の見どころは、すべて修とつながっている。

例えば、肺病の治療のために石村家に帰還した後、空襲警報で防空壕に逃げ込む裕之の顔に浮かぶ恐怖。同じころ、修は研究室でタバコをくゆらせながら実験を成功させる方法について思いを馳せている。他の学生たちは全員、地下室に逃げ込んでいるにもかかわらず、だ。当たり前の日常が破壊されるかもしれない恐怖に晒される市井の人々を体現する裕之と、研究で成果を上げること以外は見えない修。対照的な兄弟。

またあるとき、束の間の休日を兄と幼馴染の世津(有村架純さん)と過ごした後、裕之は海で入水自殺を図る。必死で止める修。軍人としての姿は一切描かれないのに、当時徴兵された若者の置かれた環境の過酷さに刺されて苦しくなる。この時まだ、修は「戦争」が作り出すものの残酷さややるせ無さが腹に落ちていない。彼の口から、怖いと泣きじゃくる弟を慰める言葉は出てこない。

修が本当にこの時の弟の思いを理解するのは、物語が終わりに近づき、京都に原爆が投下されるとの噂を聞いて比叡山に観測機器を設置する場面でだ。広島に原爆が投下され調査に行って、自分の研究が目指していたものの正体を目の当たりにした後。弟のように身を賭して国の役に立ちたいと、自ら比叡山に登る修。山で特大のおにぎりを頬張りながら、広島の光景を思いだし、怖くなった修は山を必死で駆け降りる。

うろ覚えの荒勝教授の言葉を借りれば、「戦争はエネルギーの奪い合いによって起こる。核分裂を実現することで爆発的なエネルギーを作り出せるようになれば、戦争はなくなるはず」なのだ。実際、修は兵器を作っているというより、人の役に立つものを作って、戦争を終わらせたいという気持ちで開発に取り組んでいるように見える。修の思いは、研究の成果を役立てたいというだけ。戦争とのつながりに対する意識は、薄かった。

裕之の存在が、少し浮世離れした修を俗世間とつないでくれている。

裕之を演じた三浦春馬さんのお芝居は、作品に静かにくさびを打つ。ヒロシマを目の当たりにした修の雄弁な沈黙は、裕之が戦地で見たものを想起させる。季節の移り変わりを美しい色合いで描いてきた映像がモノクロになる瞬間、戦争とは市井の人々の日常を木っ端微塵にするものなのだと、突き付けられる。

印象的なこのシーンの裏にあるのは、三浦春馬さんの好演だ。笑顔の下に隠した不安と恐怖を防空壕に隠れる時に垣間見せ、束の間の休息を過ごす海で爆発させる。主人公・修の研究者としての思いの変化は、裕之の存在によって色濃く描かれる。

本作の主人公・石村修という人物を立体的にしているのは、演じた柳楽優弥さんだけではない。裕之を三浦春馬さんが演じたからこそ、修が修として立ちのぼる。

役者・三浦春馬の真価は、クレジット順では決まらない。



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