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人間ヴェルディ:彼の音楽と人生、そして その時代 (1)

著者:ジョージ・W・マーティン
翻訳:萩原治子

出版社:ドッド、ミード&カンパニー
初版 1963年

10月10日はオペラ作曲家ヴェルディの誕生日です。それを祝って、この興味深い評伝の新連載を始めます。


第一部


目次

第一章:
ロンコレ村
(1812〜1823 / 0歳から10歳)
ヴェルディの誕生。ロンコレ村。彼の両親と妹。彼の幼年期と音楽的才能の芽生え。彼の初等教育と村のオルガン師職。
翻訳後記:ヴェルディの生家

( 順次掲載予定 )
第二章:
ブセット町/その1
第三章:ブセット町/その2
第四章:ミラノ市
第五章:ブセット町の音楽長職を巡っての抗争
第六章:音楽長
第七章:ミランで戴冠式とオベルト初演
第八章:当時のオペラのスタイルと第2作「一日だけの国王」
第九章:本人が語った第3作「ナブッコ」初演までの様子

第1章:ロンコレ村


ヴェルディの誕生

ヴェルディの生家

1813年のロンコレ村は、百人くらいの農民家族が住む村で、20くらいの小さな家が聖ミケール教会を中心に散らばっていた。村はその地域で一番大きいブセット町と、パルマ公国首府のパルマ市を繋ぐ街道筋にあった。18世紀末から19世紀にかけてのナポレオン侵略のお陰で、封建制度から解放され、農民は所有者として農地を耕していた。そこは大昔からポー川が氾濫していた地域で、農地としては肥沃だったが、戦争で荒らされた1813年における彼らの生活は楽ではなかった。戦争とナポレオン軍の徴兵制度で村民たちは疲弊していた。村では農業以外に、大工仕事や靴製造など多少の手工業的な仕事も試みられていたが、微小だった。ヴェルディの父親は、村の飲食屋と食品店を兼ねた商売をしていた。収入を増やすため、彼は塩、ワイン、雑貨などを遠く離れた農家に売り歩き、また菜園を作っていた。彼の妻、ルイジアは店番だけでなく、糸紡ぎをしていた。全体に夏は暑く、耕地からは埃っぽい風が吹き、冬はアルプスからの冷たい霧がポー川の平地を覆う、そんな村だった。ロンコレ村は、何世代も後の時代には、新大陸への移民群を大量に出した村の一つだった。

彼の両親と妹

ヴェルディの実家は村のパブ、食料品・雑貨屋と自宅を兼ねた、良い方の家屋の一つだった。現在、国立記念館としてイタリア政府が管理している。ヴェルディの思い出では、一階には表側にキッチンと店があり、裏側に飲食店とリビングがあり、その間が廊下になっていた。4つとも大きい部屋ではなかった。曲がった階段の上の屋根裏には、両親の寝室とヴェルディの部屋があった。子供部屋は多分、1816年3月に生まれた妹、ジョセッパと共有していたと思われる。この家族の初期のころは、戦争や政治的紛争で、世の中は乱れていたが、彼らの生活は、貧しいながらも、穏やかなものだったようだ。ナポレオン失脚後、1815年のウイーン会議でナポレオンの2番目の妻、マリールイーズ元王妃は、オーストリア軍の援護を得て、パルマ公国の大公爵夫人で君主となり、彼女の性格からくる穏やかな治世は、この国に20年ぶりの平穏をもたらした。ヴェルディの両親はまだ若く(父親は28才、母親は26才)、健康だったから、世の中が落ちつけば、彼らの生活、商売も回復するだろうと思っていただろう。事実、そうだったが、妹のジョセッパは生まれつき知能の遅れた子だった。感性の強い子供だったヴェルディは、幼い頃から、自然界の摂理について深く考えることになったと思われる。

彼の幼年期の逸話と音楽的才能の芽生え

彼の両親は文盲、またはそれに近かったので、子供に教えられることは農民の間に伝わる昔話と、家の周りや店、菜園での手作業くらいだった。そこで、彼らは教育のため7歳になったヴェルディを、村一番の知識人である牧師の元に送った。寺子屋的学校は単純に読み書きと算数の基本を教えるところで、子供がそこで習得したことは彼らの店で大いに役立った。だが、学校は村人の日常生活の中で要求される諸用で、しょっちゅう邪魔が入り、不規則だった。ヴェルディは父親が近くのブセット町まで仕入れに行くとき、ついて行ったり、店や菜園を手伝ったり、教会ではアルターボーイを務めていた。牧師はミサを司り、村人の懺悔を聴き、病人を見舞い、他界する人に祈祷を捧げ、村のお祭りに参加した。双方にとって、村の行事が大事で、学校は後回しになった。

彼が8歳になる前、多分彼の誕生日に、父親はヴェルディにアップライトのスピネット・オルガンを買ってあげた。皮で包まれた鍵盤の小槌の先端が、弦を叩くようになっていた。スピネットは18世紀には人気があった楽器だが、その後ピアノが取って代わった。この贈り物の年、1820年までには、ヨーロッパの主要音楽都市でも、ブセットのような田舎町でも、ピアノの方が圧倒的に人気があった。それでカルロ・ヴェルディがスピネットを買えたのだろう。このオルガンは古く、使い古されて、ペダルもなく、いくつか鍵盤が壊れていたとはいえ、当時の農村民にとって、大変高価な買い物だった。多分当時人気があったトランペットの中古の方がずっと安かっただろう。

しかし、スピネットはヴェルディに与えられ、彼は一生大事に持っていた。その小型で、使い古されたスピネットは、現在ミラノのスカラ座ミュージアムに展示されている。この身分不相応のプレゼントから分かることは、ヴェルディの音楽的才能である。モーツァルトはその歳には、批評家と一般市民の前でコンサートを開き、その頃彼が作曲したピアノのミヌエットは、現在でも出版され、演奏されている。それに比べ、ヴェルディにはそんな記録は全くない。が、何年もあとに、このスピネットの奥から見つかった、ノートがある。それによると、

私、ステファノ・カヴァレッティ、は、自力で鍵盤ハンマーを取り替え、皮で包み、ペダルを調整しました。私はこの作業を報酬なしで、喜びを持って行い、性格の良い若いジョセッペ・ヴェルディがこの楽器を弾けるようなったことで、私は大変満足しています。(1821年)

この寛大な行為は、彼の両親だけでなく村の人々が、この好ましい少年の音楽的才能を認めていた証拠である。しかし、それを彼がどう示していったか?はよくわかっていない。村にはもう一つ鍵盤楽器があった。それは教会のオルガンで、少年ヴェルディがそのオルガンに異常な興味を示し、驚くべき速さで、習得していったことは言い伝えられている。村に残る逸話と事実は微妙に交差しているだろうが、彼に関する逸話は全て事実だったかも知れない。一貫している評伝は、ヴェルディの人に頼らない、シャイだが、妨害に遭うと怒りを爆発させるという性格だった。

逸話は彼の誕生前から始まる。村をウロウロしていた旅回り楽師がある晩、彼らのパブに立ち寄り、妊娠中の母親にあなたは息子を授かると予言する。さらに彼は出産のときには、仲間とともに来て、セレナーデを奏でましょうと約束する。数人の旅回り楽師たちがパブでワインを飲みながら、安産と長男誕生を祈ったなどということは十分考えられる。イタリアの田舎では、村全体がどこの家にも男子誕生を願っていたのだから。

さらに、ヴェルディがまだ腕に抱かれた赤ちゃんだった頃、教会の鐘塔での逸話がある。時は1814年、フランス軍の敗走兵を追って、ロンコレ村に入ってきたコサック兵たちは、赤子を食べると噂され、村の女たちは皆、教会に逃げ隠れたが、ヴェルディの母親は強い愛情といっそうの安全を求める一心で、彼に乳をやりながら、鐘塔のてっぺんまで登ったと伝えられる。もし誰かが鐘を鳴らしたら、鼓膜がどうなったか、考えても恐ろしいが、多分思慮深い彼の母親は、鐘のロープを引き上げただろうと思われる。この逸話については、母親が亡くなってから63年後の1914年に、教会の鐘塔に記念碑が建てられた。ヴェルディ自身が亡くなってから13年後のことである。彼はこの件について、何も語ったことはなかった。

もう一つ、逸話があり、これについては、多少、違う話が伝わっている。ヴェルディが多分7歳のころ、教会のミサで、アルターボーイを務めているとき、彼は上から鳴るオルガンに気を取られ、牧師が「水とワインの用意を!」と言ったのに気づかなかった。参列者たちの前で、牧師は3回、この音楽に聞き惚れていた少年ヴェルディを促し、最後に蹴っ飛ばした。ある説では、これで少年は気を失ったといい、ある説では「こん畜生!」と叫んで、教会から駆け出ていったという。この逸話には多分に信憑性がある。ヴェルディは老年になって、これについて、友人にもっとひどい話をしていたらしい。しかしそれはあてにならない。ヴェルディの記憶は時に、かなり事実と違うことが証明されているからだ。

最後の逸話としては、もっと音楽的な面のことで、ヴェルディがC長音の鍵盤が壊れているとして、金槌で叩いたというもの。多かれ少なかれ、作曲家の伝説にはよく出てくる話で、素人音楽家にもあり得る。分かることは気性が激しいということ。

ヴェルディのロンコレ村での幼い頃の話が、多く伝わっていない理由としては、読み書きができない、または得意でない農民たちの中で、彼は育ったからだろう。家族の手紙とか、子供の日記とかは存在しなかった。もっと後になって、彼が有名になった後でも、彼の子供時代の様子を記録しようとか、綴るとかする村人はいなかったようだ。ヴェルディ自身、興味がなく、後年、周りの人々から強く要望されて、往年のことを紙上に記すようになったが、それらは彼がミラノに出てからの話で、それ以前については、彼は、「自分の幼年時代は大変だった」としか言っていない。

初等教育と村のオルガン師の仕事

ヴェルディの父親は息子にスピネットを買ってあげたあと、村のオルガン師、ピエトロ・バイストロッキと、オルガンのレッスンの手配をしている。村のオルガン師の職は、当時のイタリアでは、小さい村では特に、確立されたものだった。給料をもらっていたが、多分、それだけでは十分ではなく、教会の他の仕事も兼ねていたことが多い。バイストロッキの場合、彼は小学校の教師を兼ねていた。オルガン師としては、有能ではなかった。というのは彼は楽譜が読めなかったので、簡単な和音とか理論以外教えられなかった。多分彼はヴェルディにオルガンの仕組みがどうなっているかとか、練習や音楽学習にどうすれば良いかなどをアドバイスしただろう。バイストロッキがすでに相当歳取っていたことは、ヴェルディにとって幸運で、彼は教え子が1、2年のうちに自分を追い越しても気にせず、さらにヴェルディに教会行事で代行させている。彼がリタイアした時、ヴェルディは10歳でしかなかったが、彼は村のオルガン師職を引き継いだ。

この職はヴェルディにとって重要で、彼はこれを9年後の1832年に、ミラノに行くまで続けた。彼は多分、これからの給料以外に、結婚式や村祭りでオルガンを弾いて、収入の足しにしたようだ。彼は好感が持てる少年だったようだ。というのも、村人は彼を誇りにしていたようだったから。他の地区から新しいオルガン師を雇う話が持ち上がった時、村人は声をあげて、わが村の「マエストリーノ(マエストロの子供形)」をかばって、成功した。

もし、ヴェルディの父親がこの時点で、ブセットの町の学校に彼を入れることをしなかったら、ヴェルディのキャリアはここで終わっていたかも知れない。多分、ヴェルディが夜な昼なにねだっただろう:両親は彼を、知能遅れの妹と離した方がいいと考えただろう:またはロンコレ村の牧師が亡くなったことが、直接的原因だったかもしれない。何れにしても父親は賢明だった。彼はヴェルディがすでに村のオルガン師職を確保しているから、それに学校の教師職、または教会の牧師職を加えれば、さらには、司教の弟子への道も可能と考えただろう。何れにしてもブセット町に出て、もっと良い教育の場を与えることに越したことはないと判断。彼はスピネットを買った時のように、ブセットの町に出かけて、友人に話し、何ができるかを探ることにする。

[ 翻訳後記 ]

ヴェルディの生家

この村は現在ブセットを含む‘ヴェルディアン・カントリー’と呼ばれる観光地区にあり、現在イタリア政府管轄でロンコレ・ヴェルディと呼ばれている。そこに彼が生まれ育った家がある。白く塗られた分厚い壁が印象的。左側の屋根が低くなった部分は酒類などの倉庫と家畜小屋になっていたよう。飲食屋となっていた部屋など、映画(1982年制作のTVドラマ)でみるより、ずっと小さい。当時は暖房、採光、頑丈さなどから、このサイズだったようだ。

私が行った季節は10月初めで、周りは何かを刈り取った後のまっ平の耕作地が遠く地平線まで続き、間に背の高いポプラ並木と家屋が所々に見えた。ポー川流域の農業地としての、豊かさを感じさせる。古代ローマが進出してきた訳だし、中世にはアルプス山岳地帯を越えて、ドイツ人やハンガリア人が襲って来たわけだ。そして川流域の泥が煉瓦に向いていて、古代ローマ人はこれを型に入れて、窯で焼いて煉瓦を造り、道路、橋、要塞、塔、建物など、頑丈な建造物を建設したという。

この本には書かれていないが、この家は祖父の時代からヴェルディ家のもので、商売も彼が始めたらしい。ヴェルディの父方も母方もこの地域出身で、皆この辺りに住んで、農業とパブやよろず屋商売で暮らしを立てていた。音楽家は一人もいない。1992年初版の[Verdi: A Biography] by Mary Jane Phillips-Matzは、現在ヴェルディの「生涯」についての研究では最高権威の本で、これには1571年から1813年までの先祖、親戚の情報が詳しく書かれている。この著者はアメリカ人だが、何年にも亘って、既存資料を徹底的に調査して、その結果をこの本に収めた(941ページ)。私が訳している本をジョージ・マーティンが1963年に書いた頃にはこの情報はなかったと思われる。

飲食店だった部屋
ここが父親カルロの事務所だった部屋で、彼が残した書類や帳簿がその後見つかり、彼が自ら事務を取るだけの読み書き、簿記ができたことを示すためにこの展示があるとガイドは説明してくれた。
2階のヴェルディの部屋にスピネットの模型が置いてあった。本物は本にあるようにミラノのスカラ座ミュージアムにある。


これは屋根が低くなっている部分の中で、ここで母親がカイコを飼っていたのではないかと思う。私が観たTV映画にはそのシーンが出てくる。この地方にはポプラだけでなく、桑の木も多い。映画では6、7才のヴェルディが母親に言いつけられて、桑の枝を取りにいくシーンがある。彼女は絹織物の機織りをしていたようだ。
ヴェルディがアルター・ボーイを務めた教会。彼の家から100メートルくらいのところにある。私が行った時は、内部改装中で、入れなかった。彼はここのオルガン師を9年間務めたのだ。母親がベイビー・ヴェルディを抱いて、登ったのはこの教会ではなく、ここから車で5分位のところにある。ここも閉まっていたが(パンデミック中はどこも修理、改装工事が進行中だった)、外の壁に、ヴェルディの母親がベイビー・ヴェルディを抱いて、鐘塔を登ったという記念碑を確認した。これ以外にもまるで、日本の道端にある、お地蔵さんのような、一人しか入れないような、祈祷所が畑の横にある。皆信心深かったのだ。


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