見出し画像

祖母の育児日記を読んで①

実家のお仏壇の下から、父方の祖母の育児日記が出てきました。読むと幼い父の様子が目に浮かぶようでした。きっと祖父が戻った時に父の成長過程を見せようと思って記録したのでしょう。

祖母のくずし字でなかなか読めないので、少しずつnoteに転記しています。すでに17000文字を超えました。日記に登場する生きている方々の了承を得てから、いつか読んでいただけたらと思います。

昨日読んだのは、1年半ぶりに家族が再会する話。とても胸に迫るものがあったので、あらましをご紹介します。

昭和17年12月 祖父は病気のため戦地から帰国し、広島の陸軍病院に入院。その後、千葉県佐倉市の陸軍病院に転院。

昭和18年1月4日、祖母は曽祖父や祖父の妹と一緒に、2歳7か月(数え年で4歳)の父を連れて、片道4時間半もかけて佐倉まで病床の祖父に会いに行きました。

家族の再会は1年半ぶり。祖父が思いの他元気だったので、祖母は安心するとともに胸がいっぱいになり涙があふれて止まらず。祖母は自分が祖父に会えたことを喜びながらも、自分ばかりこんなに喜んで戦死した祖父の戦友やその家族に申し訳ない気持ちがしたと書いていました。

幼い父は「オトウチャマ オトウチャマ」と祖父にまとわりついていたそうです。祖父が出征したのは父がまだしゃべるようになる前。きっとよくしゃべる父にびっくりしたことでしょう。

祖母は父が祖父の顔を覚えるように、いつも写真を見せていたそうです。父は祖父に会ってすぐに「オトウチャマ」と認識したようでした。

祖母と父はそのあとも1月中に2回、祖父に会いに行きました。

2歳児を連れて片道4時間半かけて日帰り。戦地からの一時帰国。会える時に会っておかなければ、という必死な思いだったのでしょう。

父から聞いた話によれば、祖父はこのあと快復して再び出征していき、終戦後に無事に帰還しました。でもそんなことは日記を書いている当時の祖母は知る由もありません。

元気な祖父に会っている時の嬉しさ、また離れる予感、祖母の胸にはいろいろな想いが去来していただろうと思います。

戦時中に留守を守っていたたくさんの家族が、きっと祖母と同じような想いをして過ごしていたのだろう。そして出征を見送ったきり、もう会えなくなった家族もたくさんいたのだろうと思うと、私も読んでいて涙があふれました。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?